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【青蓮院】《天台宗門跡寺院》075-561-2345 【将軍塚青龍殿】はこちらをクリック
伝教大師最澄が開いた比叡山の東塔から平安末期、青蓮坊というお堂を移したのが寺のはじまりと伝わる。青蓮院が最も隆盛を極めたのは、第3代門主慈鎮(※慈円の諡号)和尚の時で、和尚は4度天台座主をつとめた。また、当時まだ新興宗教であった浄土宗の祖法然上人や、浄土真宗の祖親鸞聖人にも理解を示し、延暦寺の抑圧から庇護したと伝わる。天明8年(1788)の大火の皇居炎上の際、後桜町上皇の仮皇居となったことから粟田御所とも呼ばれる。明治維新には寺領の多くを没収され、特権の剥奪にあい、空しく残った建物は京都府仮病院に転用された。明治26年、失火により主要建物は焼失。現在の建物はその後の再建。神宮道沿いの楠の大木は、親鸞聖人お手植と伝わり、寺の歴史の古さを感じさせる。天台宗の五箇室門跡の一つ(他に妙法院・三千院・曼殊院・毘沙門堂)。
山門 | 長屋門 | 勅使門 |
池泉回遊式庭園 | 本堂 | 宸殿 |
一文字手水鉢 | 小御所 | 植髪堂 |
※慈円(1155〜1225) 鎌倉初期の天台僧。九条兼実の弟で天台座主。『新古今和歌集』の代表作家で、著作に『愚管抄』がある。
■華頂殿(書院) 客殿(白書院)。ここから眺める相阿弥作の庭は圧巻。お抹茶有り。三十六歌仙額絵有り。木村英輝氏奉納の、蓮の襖絵(60面)有り。
◆一文字手水鉢 自然石で豊臣秀吉寄進と伝える。
■小御所 明治の再建で、江戸中期の建物を移築している。襖絵は狩野派の画家による。
■本堂 境内の東南隅。本尊・熾盛光如来および青不動を祀る。不動明王二童子像(青不動)[国宝]は、将軍塚青龍殿に安置。
◆本尊熾盛光如来 創建以来はじめてのご開帳(平成17年9月28日〜12月28日)で、約2m四方の掛け軸の曼荼羅。天台宗第3代座主の慈覚大師円仁が唐から請来して、比叡山の山頂に法華総持院を建立し勅許を得て祀ったことから始まる。梵字のボロンで表す種子曼荼羅、ボロンとは最尊最勝の大日如来の仏項の意で仏智そのものを仏格化したもの。青蓮院門跡は平安時代からこのご本尊を祀って、宮中から中心的に勅命を受け、折々に天変地異の息災と皇室の安寧を祈願する役割を担ったという。幾多の戦乱火災等を経て今回のご開帳のご本尊は桃山時代作。
◆不動明王二童子像(青不動)[国宝] 青不動と呼ばれ、日本三不動の一つで、他に園城寺黄不動(曼殊院にも模写黄不動[国宝])、高野山明王院の赤不動がある。青不動は、信仰の上でも、美術的にも、史料的にも、正に現存する仏教画のなかでも至高のもので、平安時代の飛鳥寺玄朝によって描かれたと伝わる。将軍塚青龍殿に安置。複製は常時展示されている。
■宸殿 明治の再建。歴代天皇の御尊碑と歴代門主の位牌を安置し、主要な法要を行うのに用いられているところ。宸殿前に右近の橘、左近の桜を配するのは、御歴代尊儀の在ます所の意味。親鸞聖人の得度の場所でもある。今、杉苔に覆われた宸殿の前庭は本来白砂を敷いていたもの。
◆浜松図襖絵[重文] 徳川秀忠の息女が後水尾天皇の女御として入内した時に、幕府は女御御殿を造営した。その御殿が不要になってから朝廷は各所に分割して賜ったが、この宸殿の前身の建物はその一つで絵も建物に付属していたという。作者は住吉具慶と伝える。
■庭園 室町時代の相阿弥の作と伝える池泉回遊式庭園。粟田山を借景にしてその山裾を利用した幽邃な趣の庭。池の対岸南に高く石積みした滝口を中心として、東側にかけて柔らかな曲線をえがいた築山が設けられている。池を龍心池といい、反りの美しい石橋を跨龍橋と呼び、滝を洗心滝と云う。
■好文亭 後桜町上皇が天明の皇居炎上に際して、仮御所とされたとき、御学問所として建てられた。明治以降茶室として活用していたが、平成5年、過激派による放火で焼失。平成7年に完全復元される。障壁画13画は上村淳之先生の御奉納による花鳥図。
■植髪堂 青蓮院の境外仏堂。親鸞上人が9歳の時、当院の慈円僧正によって得度した因縁により1759年に建立。本尊阿弥陀如来像の傍らに安置する親鸞童形像は、頭に真髪を植えた像といわれている。浄土真宗ゆかりの寺。
◇青蓮院門跡東伏見慈洽(前門主) 香淳皇后とご兄弟で、今上天皇の母方の叔父。天台宗の主要寺院が住職の世襲を認めていないのに対し、青蓮院門主の地位を子息に譲ることを強く望んで天台宗教団と鋭く対立したが、2004年に青蓮院の執事長であった次男の慈晃氏(今上天皇といとこ)が現青蓮院門主となる。
参考資料 昭和京都都名所図会 竹村俊則著より
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