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京都観光タクシー同友会の観光案内

【霊山・維新の道】

【霊山】

東山三十六峰中の一つ。正しくは霊鷲山(りょうじゅせん)といい、その山容があたかも釈尊が説法されたというインド摩掲陀(まかだ)国の霊鷲山に似ていることから名づけられたと伝える。海抜240メートル。山中には古くは※霊山寺をはじめ、多くの仏寺がその山麓一帯にわたって建立された。しかし中世には戦略的な要地となり、天文21(1552)足利義輝は山上に城砦を構えた。明治以降は国事でたおれた人達の霊を祀る招魂社(しょうこんしゃ)が建立された。

※霊山寺 現在の正法寺のあたりと推定される。元慶8(884)光孝天皇の勅願により建立されたとつたえ、かなり荘厳な寺院であったという。清少納言『枕草子』にも登場、『更級日記』の著者、藤原孝標(たかすえ)の女も詣でたという。寺運は次第に衰微、室町時代の初頭に国阿上人が、この地に正法寺を建立し時宗の寺に改め興したと伝える。

【霊山歴史館】пF075-531-3773

  全国唯一の幕末・明治維新の専門歴史博物館として昭和45(1970)、有志の人々によって建立。江戸中期以降、とりわけ天保期後の諸藩志士をはじめ朝廷、公卿、諸侯、藩主、文人、画家など重要人物の遺墨、詩文、遺品、書状や各種資料・文献などの収集、調査、研究、公開展示。収集資料は5000点を超えている。公開展示は約100点を選んで常設展を行っている。また時期によっては全国各地の博物館や個人所蔵家の協力を得て特別展を開催している。

霊山歴史館 館内記念撮影場所

【京都霊山護国神社】пF075-561-7124

 幕末・維新の志士や、第二次世界大戦の京都府出身の戦没者の霊を祀っている。幕末に山口、高知、福岡の各藩が殉難者をここに祀ったのが起こりで、明治元年(1868)に我が国はじめての官祭招魂社として創立。境内つづきの山腹には、維新の志士の墓が550基ほどある。なかでも坂本龍馬、中岡慎太郎・木戸孝允墓よく知られている。

京都護国神社本殿 坂本龍馬・中岡慎太郎墓

【霊山観音】пF075-561-2205

 霊山を背負うようにして巨大な観音坐像がある。戦争犠牲者の冥福を祈って建立されたコンクリートの坐像で、山崎朝雲氏によって、昭和30年にできたもの。高さ24mの像の台座には、十一面観世音菩薩を中央に二十八部衆と風神・雷神を祭る。像の裏からは胎内に入ることができる。その胎内には十二支の守り本尊を祭っている。なお、境内には、宝物殿・霊牌殿・納骨堂・禅堂・不動堂・鏡池などがある。

霊山観音

【翆紅館跡(料亭・京大和)

 この地はもと叔阿弥(正法寺塔頭)のあったところであるが、天保(1830~1843)のはじめ頃、西本願寺が買収し、書院・庭園などをつくり、翆紅館と称した。文久3(1863)桂小五郎や真木和泉らはここで、急進派の公卿と会同し、天皇親政についての話し合いが行われた。その結果、大和行幸の発令に至ったが、これが原因で政変を引き起こし、急進七卿の都落ちの原因となった。世にこれを翆紅館会議という。現在は料亭・京大和となっているが、当時の建物は保存されている。

竹内栖鳳(たけうちせいほう)旧宅跡(ザ・ガーデンオリエンタル)

 栖鳳は元和(げんな)元年(1864)御池油小路西入ル、料亭亀政の独り息子として生まれた。家業は姉にゆずり、四条派の幸野楳嶺に師事し、画業に励む。写実主義に徹し、すぐれた動物禽獣画の名作を描いた。その門下からは土田麦僊(ばくせん)、上村松園、堂本印象などの画家を輩出させ、近代京都画壇の隆盛を導いた。昭和4年、この地に住居を建て、京都での寓居とした。昭和17(1942)湯河原にて没。享年79歳。墓は黒谷墓地内にある。

参考資料 昭和京都都名所図会 竹村俊則著より

明保(あけぼ)野亭(のてい)

「明保野亭」は産寧坂を清水寺から下がったところにあり、現在は食事処とおみあげ屋さんです。幕末は長州藩士がよく集まっていた料亭で、坂本龍馬が常宿し、倒幕の密議を志士たちと談合していたことで有名。幕末当時の明保野亭は、現在とちがい京都阪口(青龍苑)という料亭あたりだったとされている。

坂本龍馬ゆかりの地】近江屋跡・池田屋跡・酢屋・土佐藩邸跡・長州藩邸跡・楢崎家跡(お龍の実家)・寺田屋は、こちらをクリックしてください。

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