京都観光タクシー同友会の観光案内
【坂本龍馬ゆかりの地】
近江屋跡 | 池田屋跡 | 酢屋 |
土佐藩邸跡 | 楢崎家跡 | 伏見寺田屋 |
【近江屋跡の石碑】
この地は、維新の功労者である土佐藩海援隊長の坂本龍馬(1835~67)が盟友である陸援隊町の中岡慎太郎(1838~67)とともに、刺客に暗殺された近江屋(醤油商)があったところ。龍馬は海援隊の本部があった酢屋(材木商)に下宿していたが、前年の寺田屋事件より、幕府から狙われていたため、土佐藩の出入り商人であった近江屋に移っていた。慶応3年(1867)11月15日の夕刻、中岡が近江屋を訪ね、大政奉還後の政局について論じていたが、夜になり、十津川郷士と称する男たちによる襲撃を受けた。龍馬はその場で絶命し、中岡も二日後この世を去った。龍馬33歳、中岡30歳。実に大政奉還が行われた一ヶ月後、大政復古の大号令が出る一ヶ月前の出来事である。龍馬と中岡は、ともに遭難した山田藤吉と現在の京都霊山護国神社に埋葬されている。「京都市の駒札より」
石碑を建てるにあたっては裏話があり、河原町通りは大正13年の道路拡張にともない整備され、近江屋の所有者もかわり、そこにカフェを建てる予定があり、暗殺された現場では縁起がわるいということで、本来の場所を外れて北隣に建つという。
【池田屋跡】
元治元年(1864)6月5日、祇園祭の宵々山に池田屋事件がおこった。この事件の発端は、四条小橋で馬具商を営んでいた古高俊太郎を捕らえたところ、表向きは商人を装っていたが、裏では勤皇志士と通じ武器調達や密会の連絡役もやっていたのが判明。新撰組は古高を拷問、志士達の陰謀が露見することとなった。風の強い日に御所に火をかけ、中川宮を幽閉し松平容保、所司代松平定敬の首をはねるという内容であったという。新撰組は34名の隊士を二手に分け、近藤隊が長州の定宿池田屋に志士が集まっているとの情報をえた。近藤は池田屋にのりこみ20数名の尊攘過激派と戦った。土方隊の到着により戦局は新撰組に有利に傾き、9名討ち取り4名捕縛の戦果を上げる。この事件により、御所焼き討ちの計画を未然に防ぐことに成功した新選組の名は天下に轟くこととなる。
【酢屋】
酢屋は河原町三条下ル一筋目東入ル北側にあり、この通りを龍馬通という。坂本龍馬は海援隊京都事務所を材木商の酢屋嘉兵衛宅に構え、自身もこの酢屋に下宿した。幕末当時、「酢屋」の前は高瀬舟の舟入場だったといい、酢屋は享保6年からの創業で280年、この地で材木商を続けて、現在10代目になるといいます。「酢屋」の二階は、「龍馬ギャラリー」として見学できる。
【土佐藩邸跡】
木屋町通蛸薬師の南側にある立誠小学校跡がかつての土佐藩邸跡。坂本龍馬が暗殺された、近江屋とも非常に近いところにあります。明治4年まで土佐藩邸は、この地にあった。
◆土佐稲荷 創建は1348年(貞和4)といわれています。もとは鴨川の中洲の岬にあったといいます。江戸時代の初め頃に土佐藩邸内に移されたもので、坂本龍馬などの土佐藩士のほか地域の人々の信仰が深く、参拝のために特に藩邸内への通り抜け参拝を認めていたという事です。また、境内には坂本龍馬の像がある。
【長州藩邸跡】
京都ホテルオークラの辺りは、かつて長州藩の藩邸があったところ。ここに長州藩邸跡の石碑と桂小五郎像が建っている。桂は幕末、長州藩の京都における「外交官」だった。 「禁門の変」で長州敗走後、乞食に変装して鴨河原に潜み、京都脱出の機会を待っていた。その陰には恋人・幾松(後の松子夫人)の献身があった。料理旅館「幾松」は、桂小五郎と三本木の芸妓幾松の木屋町寓居跡。
【楢崎家跡(お龍の実家)】
柳馬場六角上ル東側の「晃庵」という食事処に石碑があります。坂本龍馬の妻・お龍の実家跡と伝わります。お龍は、青蓮院宮に使える医者で楢崎将作の長女といわれています。良家のお嬢様として育ちますが、父が亡くなると一家は、ばらばらとなり、母と妹が方広寺南門の河原屋五兵衛の隠居所に居住する土佐亡命志士の賄のため、住み込みで働きます。ここに龍馬が住んでいて、お龍と出会うきっかけとなったといわれています。「案内板 歴史地理研究者 中村武生より」
【霊山維新の道】霊山歴史館・京都霊山護国神社(坂本龍馬と中岡慎太郎の墓)・翆紅館跡・明保野亭などはこちらをクリックしてください。
【伏見寺田屋】
寺田屋は薩摩の定宿としてしられていた。旅人は寺田屋の前の船着場から三十石船で大阪八軒屋へと向かったといいます。下りは早く夜に乗船すれば早朝には大阪に着いたといいます。上りは綱で引き朝、大阪を出ても夕方にしか伏見入ることができなかったといいます。
事件は文久2年(1862)4月23日、薩摩藩士有馬新七等30余名が、藩主島津久光の東上を機に、公武合体派の公卿や京都所司代酒井忠義等を殺害することを計り、集まったことによる。これを知った島津久光は、この行動を思いとどまらせるよう説得に努めたが、ついに乱闘となり、世に「寺田屋騒動」称し、維新史上有名な事件となった。殉難者は、寺田屋のお登勢が伏見鷹匠町の大黒寺に手厚く葬り、のち西郷隆盛は九烈士の墓碑を建立し、墓標文を揮毫した。
その後土佐藩士坂本龍馬がしばしばここを隠れ家とし、慶応2年(1866)1月23日、幕吏おそわれたとき、寺田屋の女将お登勢の気転によって危なく難をまぬがれたことがある。龍馬はこのときピストルを数発撃って敵を倒したという。これが映画や小説の題材となり、寺田屋の名を世に有名にした。
「参考資料 昭和京都都名所図会 竹村俊則著より」
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