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【吉野山】《世界遺産》

 大峰山脈の北端、南北に約8qつづく尾根。6世紀に役行者が大峰山を開いて、吉野山に金峯山寺を創建し、以来、修験道(しゅげんどう)の聖地として栄えてきた。鎌倉時代には義経悲話の舞台となり、南北朝時代には南朝の中心地となるなど、歴史とのかかわりも深く、修験道の寺々と南朝の史跡が多く残っている。

◇吉野の桜 「これはこれはとばかり花の吉野山」と安原貞室(ていしつ)(1610~1673江戸前期の俳人。京都の人で紙商。松永貞徳の高弟)が詠んだように、吉野の桜は、尾根から谷を埋める。吉野山が日本一の桜の名所となったのは、奈良時代の昔、役行者が金峯山寺(きんぷせんじ)を開くとき、感得(かんとく)した蔵王権現(ざおうごんげん)を桜の木に刻んだ故事から、神木として保護されてきたため。以来、寄進も相つぎ、吉野に住む者は桜を(いつく)しんで大切にしてきたという。現在約200種3万本、多くがシロヤマザクラ。若葉と同時に開花する。下千本は吉野駅付近、中千本は如意輪寺付近、上千本は吉野水分神社付近、奥千本は西行庵一帯。

※修験道 日本古来の山岳宗教に仏教・道教・儒教が結びついたもので、山で苦行し、護摩(ごま)()き、祈祷師神験を獲得を目指す。開祖といわれる役行者は奈良時代初めに大峰山にこもり、金剛蔵王権現を感得したという。修験道の確立は鎌倉時代で、修験者を山伏(やまぶし)ともいった。室町時代には天台系本山派と真言系当山派にまとまったが、明治の神仏分離令で修験道は廃止となった。しかし、その後も信仰はつづき、現在おもな教団は、真言宗醍醐派・本山修験宗(聖護院)・金峯山修験本宗などである。

【吉野神宮】《祭神・後醍醐天皇》07463-2-3088

 1889(明治22)年、明治天皇が後醍醐天皇をしのんで創建。摂社には日野資朝(ひのすけとも)児島高徳(こじまたかのり)など7人の功臣たちを祀っている。社殿は昭和7年に改築が完成。古今の神社建築の粋を集めた建築で、本殿・拝殿・神門など、すべてが檜造。この地は、大塔宮(おおとうのみや)護良親王(もりよししんのう)(後醍醐天皇の皇子)は吉野に挙兵されたおり、北条幕府方に占拠され本陣になったと伝わる。正北面を向く本殿は、京を恋しく思われた後醍醐天皇の心情をうつしたといわれている。

金峯山寺(きんぷせんじ)《金峯山修験本宗総本山》07463-2-8371

 寺の創建年代は明らかではないが、役行者(えんのぎょうじゃ)が金峯山を開き、平安時代に※理源大師聖宝が金峯山寺に蔵王権現(ざおうごんげん)を安置したという。以後、鎌倉時代にかけて隆盛をきわめ、多数の堂塔が並び、僧兵は吉野大衆(よしのたいしゅう)と呼ばれ強大な勢力をもち、参詣も天皇から庶民に至るまであとを絶たなかった。1093(寛治7)年の蔵王堂炎上や1348(正平3)年の高師直(こうのもろなお)の兵火など、数度にわたり炎にも包まれたが、再三の復興で現在に至っている。金峯山寺とは『金のみたけ』といわれる吉野・大峰山にちなむ名で、山上ヶ岳(さんじょうがだけ)大峯山寺(おおみねさんじ)に対して玄関口の役割を果たしている。
 1874(明治7)年、明治政府により修験道が禁止され、金峯山寺は一時期、廃寺となるが、1886(明治19)年に天台宗の末寺として復興。昭和23年には、蔵王堂を中心に、金峯山修験本宗が立宗し、その総本山として今日に至っている。

理源大師(りげんだいし)聖宝(しょうぼう) 平安時代初期の真言宗の僧で、修験道当山派の始祖と仰がれる。また、京都・醍醐寺を創建する。

蔵王堂 仁王門 天満宮

■黒門 山上駅の南にある金峯山寺の総門。瓦葺の黒い四脚門、昔は大名もここで下馬したという。

銅鳥居(かねのとりい)[重文] 黒門から急坂を登りつめたところにある。高さ約7.5m、柱の周囲約3.3m、すべて銅製。1348(正平3)年に高師直の兵火で焼失したあと、室町時代に再建。正しくは発心(ほっしん)門。山上ヶ岳までの間に発心、修行・等覚・妙覚の四門があり、これが最初の門。行者たちはここから向こうを冥土と見たて、ひとつ門をくぐるごとに俗界を離れて修行する決心を強めていったという。

■仁王門[国宝] 1456(康正2)年の再建。三間一戸、入母屋造、本瓦葺の楼門で、金峯山寺の北の仏門。仁王像は1338(延元元)年、仏師康成(こうせい)(運慶の曽孫)の作で、1456(康正2)年改めて彩色された。

■蔵王堂(本堂)[国宝] 1592(天正20)年に再建。東大寺大仏殿に次ぐ木造大建築。正面5間、側面6間、建物の回りに裳階(もこし)を付けた入母屋造(いりもやづくり)桧皮葺(ひわだぶき)で、高さが約34m。蔵王権現を本尊とするため、蔵王堂と呼ばれる。内部は内陣(ないじん)礼堂(らいどう)からなり、松やチャンチン(ツツジの一種)など自然木を素材のまま使った柱68本が林立するさまは豪壮である。また、内陣の金箔張りの化粧柱や須弥壇(しゅみだん)は秀吉が花見の際に寄進したものといわれている。

【吉水神社】《祭神・後醍醐天皇、楠木正成、宗信法印》07463-2-3024

 もとは金峯山寺の僧坊で吉水院といった。明治のはじめ、後醍醐天皇、楠木正成、宗信法印(そうしんほういん)をまつる神社に改められた。吉野へ潜行(せんこう)された後醍醐天皇を、吉野大衆の中でも特に力をもっていた住職、宗信法印がお迎えし、吉水院は一時行宮(あんぐう)となる。また、頼朝に追われた義経が静御前・弁慶らとともに逃れてきたという。時代が下がって豊臣秀吉花見の際は本陣ともなった。書院には南朝の古文書・楽器・武具など神社ゆかりの宝物が多く陳列してある。

■書院[重文] 初期書院造の傑作といわれる書院建築。単層(たんそう)入母屋造(いりもやづくり)桧皮葺(ひわだぶき)。義経潜居(せんきょ)の間、後醍醐天皇の玉座(ぎょくざ)の間、太閤秀吉花見の間がある。うち、義経の間が室町時代様式で、他は桃山時代以降のもの。

社殿 書院 源 義経 潜居の間
後醍醐天皇玉座 - 北闕門

【竹林院】単立(たんりゅう)・開基、聖徳太子》07463-2-3024

 創建は818(弘仁9)年、空海が入峯のとき建てた椿山寺(ちんざんじ)に始まるという。本堂の聖徳太子像は南北朝時代の作。天正年間には尊祐という弓のうまい僧がいて、弓道竹林流を開いた。格調高い宿坊としても知られる。

◆庭園群・群芳園(ぐんぽうえん) 竹林院の庭園で千利休が作庭し、細川幽斎が改修したという。回遊式の借景庭園で、大和三庭園の一つに数えられる(他に当麻寺「中の坊」、大和小泉「慈光院」の庭)。

【如意輪寺】《浄土宗》07463-2-3008

 創建は延喜年間(901〜923)と伝えられ、1336(延元元)年、後醍醐天皇の勅願寺(ちょくがんじ)とされた寺。天皇没後、楠木正行(まさつら)が大阪四条畷(しじょうなわて)の戦いに出陣前、(やじり)で記した※辞世の歌が堂の扉(宝物殿に保存)に残る。

※辞世の歌 『帰へらじとかねて思えば梓弓 なき数に入る名をぞとどむる』

■宝物館 南朝関係のものを多く陳列している。蔵王権現立像[重文]は鎌倉時代の中期、1226(嘉禄2)年の作で、高さ84cm、桜の一木造で極彩色を施し、全身に切金(きりかね)模様の入った精巧なもの。楠木正行辞世の扉もここにある。

至情塚(しじょうづか) 楠木正行の妻になるはずだった弁内侍は、正行が討死したため悲しみのあまり尼となった。その黒髪がここに埋めてあるという。

本堂 至情塚 芭蕉の句碑
中千本 多宝塔 後醍醐天皇陵

【吉野水分(みくまり)神社】《祭神・天之(あめの)水分(みくまり)大神ほか6神》07463-2-3012

 水の分配を司る天之水分大神を祀る。みくまりが訛ってみこもりとなり、俗に子守明神ともいい、子授けの信仰がある。桃山時代のたいへん美しい本殿や楼門・拝殿などからなる神社で、豊臣秀吉の再建。

■本殿[重文] 中央春日造(かすがづくり)、左右流造の三殿は、間口九(けん)(むね)につらねられている。中央に水の分配を司る天之水分大神が主神として祀られ、玉依姫命(たまよりひめのみこと)坐像[国宝]は右殿(左側)に天万栲幡千幡姫命[重文]とともに固く秘められている。他に拝殿・幣殿・楼門・回廊は重文。

玉依姫命(たまよりひめのみこと)坐像[国宝] 五衣(いつつぎぬ)の上に(うちぎ)を重ねた盛装の女神像で、写実化された代表的神像。鎌倉時代の作で、寄木造、玉眼入りで彩色(さいしき)切金(きりかね)文などがよく残っている。非公開。玉依姫命は神武天皇の母、海神の娘として『古事記』や『日本書紀』の「海幸、山幸」に登場する女神。

 本来仏像は、人びとに拝観させることを目的として造られたものであり、期日を限って開扉されるのはむしろ特殊な例で、とくに「秘仏」と呼ばれている。これに対し、日本古来の信仰では偶像を造ることはなかったが、仏像の影響で平安時代から神像が製作されるようになる。しかし、神像の場合は公開を目的とするものでないため、人々の目に触れることはほとんどなく、「秘仏」に当たる言葉もない。

【金峯神社】《祭神・金山毘古命(かなやまひこのみこと)》吉野町商工課07463-2-3081

 奥千本に、杉や桜の老樹におおわれて鎮座する古社。祭神は吉野山の地主神、金山毘古命。中世以降は修験道の修行場で、藤原道長も祈願したと『栄華物語』(平安時代の古典。仮名文。女性の手になる編年体物語風史書で、作者不詳)に記す。藤原道長の経筒を収蔵する(京博に寄託)。

金峯神社

◆藤原道長経筒[国宝] 1691(元禄4)年金峯山山頂から出土。藤原道長が自ら書写した法華経など納入する。銅板製の円形経筒で、前面に厚く鍍金が施され、身の側面には、二十四行で五百十文字が刻まれている。この経筒は現存する最古の経塚遺物で、銘文は経筒の本質を表した基本資料。

◆義経隠れ塔 宝形造、桧皮葺の塔。むかし、頼朝に追われた義経がこの塔に隠れ、追っ手から逃れるため屋根を蹴破ったという伝説から蹴抜の塔ともいわれる。

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