京都観光タクシー同友会の観光案内
【八坂神社】《祭神
1868年(慶応4)、神衹官達により八坂神社と改称するまで、感神院または祇園社と称していた。もと奈良興福寺に属したが後、延暦寺の別院となり、祇園社は日吉社の末社となった。創祀については諸説あるが、656年(斉明天皇2)に高麗より来朝した使節の伊利之が新羅国の牛頭山に祀る牛頭天王(素戔嗚尊)を山城国愛宕郡八坂郷の地に奉斎したことに始まるという。また、一説には876年(貞観18)南都の僧・円如が建立、堂に薬師千手等の像を奉安、また、天神(祇園神)が東山の麓、祇園林に垂迹したことに始まるともいう。877年(元慶元)疫病が流行したとき、当社に祈願して屏息したのでその神威に感じた右大臣藤原基経は、その邸宅を寄進して精舎としたことから感神院とよばれ、その行為があたかも釈迦のために建立した祇園精舎に似ているとて祇園寺とよび、天神堂を祇園社と呼ばれるにいたったという。
■祭神について 祭神を牛頭天王としたのは、祇園精舎の守護神が牛頭天王によるからで、牛頭天王は疫病を支配する神とされ、素戔嗚尊を本地と考えられていた。その後は次第に疫病消除の神社として朝野の崇敬を得るに至った。中御座には素戔嗚尊、東御座にはその妻、櫛稲田姫命。西御座は素戔嗚尊の八人の子供達を祭る。
■本殿[重文・江戸] 1654年(承応3)徳川家綱が紫宸殿を模造して再建したものと伝わる。蟇股や手挟等に桃山風の華麗な彫りもので、世に※祇園造と称する神社建築の一様式。祭神は、身舎中央の間に素戔嗚尊、東の間に櫛稲田姫命、西の間に八柱御子神を祀る。社伝によれば、本殿床下はもと池があって、今はセメントで覆われているという。一説に床下に竜穴があって、その深さ50丈(151.5m)におよんでもなお底を知らぬといわれ、神泉苑と当時の灌頂院の善女竜王の井戸に通じるとも伝える。
※祇園造⇒京都祇園の八坂神社だけに見られる。別棟であった本殿と礼堂(現在の拝殿)を一つの屋根で覆ったもので、最も仏寺建築に近い神社建築様式とされる。祇園造の構造は、入母屋造・平入、正面5間、側面2間に庇を廻らして本堂とし、前面に礼堂を加え、それらを一つの檜皮葺屋根で覆っている。更に、正面には向拝を、他の三面には孫庇を加え、大規模で複雑な構造になっている。
■西門[重文・室町] 屋根小屋根と横材が外部にまで突き出て、駕籠のにない棒にみえるので、駕籠門ともよばれる。左右の翼廊は古式を模して近年造られたものであるが、L型になっているのは平等院鳳凰堂に似ている。
■疫神社 祭神は蘇民将来を祀り、疫病を祓う神として崇められている。『備後国風土記』によれば、素戔嗚尊が南海に旅行されたとき、行き暮れて一夜の宿を求められたところ、富たる兄巨旦将来はこれを拒み、貧しき弟蘇民将来はこころよく尊を迎え入れ、粟飯で饗応した。尊は大変喜ばれ「近く悪疫が流行するだろうが、その時蘇民将来之子孫也としるした茅の輪をつくり、腰に下げれば悪疫をのがれる」と仰せになった。果たして悪疫が流行し、巨旦一家は全滅したが、蘇民一家は無事であったという。
■蛭子社[重文・江戸] 「北向蛭子」ともよばれ、事代主神を祀る末社の一つ。一間社流造り、杮葺きの社殿は、左右後の三方に廂屋根を設ける。これが純粋の祇園造りという。
■祇園御神水(力水) 八坂神社本殿の床下の龍穴から湧き出たお水。力水ともいう。
■忠盛灯籠 平忠盛がある雨の夜、白河法皇のお供をして祇園女御のもとへ赴くとき、蓑を着た社僧の姿が灯籠の灯りに映じて鬼のように見えたのを、忠盛の沈勇によってその正体をみとめ、法皇の御感を得たという『平家物語』のエピソードに因んでこの名が生じた。鎌倉中期の作という。
■悪王子社 素戔嗚尊の荒魂を祀る。下京区に「悪王子町」と「元悪王子町」と名の付く町があり、昔はこの町内に祀られていた。現代語の「悪」とは意味合いが少し違い、昔は「悪=強力」と言う意味合いもあった。1877年(明治10)八坂神社で祀られる様になった。
■冠者殿社 天照大御神との誓約時の素戔嗚尊の御気を祀る。
■美御前社 祭神:宗像三女神(多岐理比売命・多岐津比売命・市杵島比売命)を祀る。社前に「美容水」が湧く。美に関心がある方、舞妓さん・芸子さん、美容理容関係者、化粧品業界などからあつく信仰されている天然の美容水は、“身も心も美しくなる”という。
■石鳥居[重文・江戸] 1646年(正保3)の建造。高さ9.5mの明神鳥居で、額は有栖川熾仁親王の筆。現存する石鳥居中、もっとも大きい。
■絵馬堂 西門を入った境内の北部にある。池大雅筆「蘭亭噛雅会図」をはじめ、海北友竹。西川祐信など多くの絵馬を掲げている。
■二軒茶屋 南門参道に左右にあって、西側を藤屋、東側を中村屋といった。八坂神社へ参詣する人達の腰掛茶屋としてはじめられたもの。その豆腐の田楽や菜飯が名物となり
“粋も不粋も物かたい 二本差してもやわらこう 祇園豆腐の二軒茶屋”
と詠われるようになった。中村屋は中村楼と名を改め今なお営業中。
◆田楽について 平安時代末期に中国より豆腐が伝来し、拍子木型に切った豆腐を串刺しにして焼いた料理が生まれた。その後室町時代になると調味技術が進歩し、すり鉢の登場によって味噌がすり潰されて調味料として使われるようになり、永禄年間(1558~570年)頃には焼いた豆腐に味噌をつけた料理が流行、はじめは唐辛子味噌だったものがのち調味味噌となる。その料理の白い豆腐を串にさした形が、田植えの時に田の神を祀り豊作を祈願する田楽の、白い袴をはき一本足の竹馬のような高足に乗って踊る田楽法師に似ているため「田楽」の名になったという。「田楽」という呼び名の始めを、貞和6年(1350年)の祇園神社の記録とする説がある。