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【薬師寺】《法相宗大本山》0742-33-6001

 680(天武天皇9)年、菟野(うの)皇后(のちの持統天皇)の病気平癒を祈って飛鳥浄御原(あすかきよみがはら)で創建、平安遷都に従って、718年現在地に移される。移転当初の伽藍は“竜宮のよう”といわれた壮麗な建築で、金堂の前面に東西両塔を備えた薬師寺式伽藍配置である。南都七大寺の一つに数えられる官寺であったが、平安遷都後は天災や戦乱による災禍にあい、さらに1528年、筒井順興の兵火で東塔を除く伽藍を焼失した。

休ヶ岡八幡宮 南門 中門
東塔 西塔 金堂
講堂 東院堂 玄奘三蔵院

■休ヶ岡八幡宮社殿[重文] 薬師寺の鎮守社。現在の社殿は豊臣秀頼(とよとみひでより)の寄進で慶長8(1603)の建物。宇佐八幡(うさはちまん)神が大仏を拝もうと東大寺に行く途中、神輿(みこし)をここでとめて休んだ。また、宇佐八幡を男山に勧請する時も、神輿を休めたことが、名前の由来。中世に始まった宮座が受け継がれている貴重な歴史文化遺産。

僧形(そうぎょう)八幡神・神功皇后(じんぐうこうごう)中津姫命(なかつひめのみこと)坐像[国宝] 休ヶ岡八幡宮の祭神(さいじん)。平安時代前期の寛平年間(889898)に薬師寺別当栄紹(えいしょう)によって勧請祭祀(かんじょうさいし)された薬師寺鎮守八幡宮の三柱の神像で、ひとまわり大ぶりに造られた僧形(そうぎょう)八幡神を中心にし、向かって右に神功皇后(じんぐうこうごう)、向かって左に仲津姫命(なかつひめのみこと)を配した三神一具の像として安置されている。木彫神像として最古の作例に属する。奈博に寄託(きたく)?

■南門[重文] 南大門の旧跡に立つ。もとの西門で室町時代の建築。

■中門・回廊 中門は昭和59(1984)に西塔に引き続き復興。その年、108日の落慶法要の時には扉だけを開く。その後、「わかくさ国体」の開会式のおり、昭和天皇がおいでになられて、この中門を初通りされたといいます。平成3(1991)には二天王像が復元。二天王像の形式は、中国西安大雁塔の門垣にある線彫の仁王像や、法隆寺の橘夫人厨子の扉絵等を参考にしたといいます。回廊は、藤原京時代の薬師寺では単廊であったとされていますが、平城京薬師寺では複廊と呼ばれる2重構造になっているのが特徴。

東塔(とうとう)[国宝]  薬師寺で唯一創建当時より現存している建物で、1300年の悠久の時を重ねてきた歴史をその姿から感じられる。高さ33.6mの三重塔(一見六重に見えますが、実は三重の塔です)で各層に裳階(もこし)がつく。かつてフェノロサがこの塔を“凍れる音楽”と評したことは有名。塔上の相輪(そうりん)部に銘があり、飛雲に奏楽の童児と飛天(ひてん)をあしらった水煙(すいえん)(尊い塔が火災にあわぬようにとの願いをこめて、水煙が祀られている)は独特。

塔は本来お釈迦様のお墓を意味します。インドで梵語のストゥーパが音訳されて卒塔婆(そとうば)となり、それが塔婆、更には塔と表現されるようになりました。お釈迦様のご遺骨・仏舎利(ぶっしゃり)を埋葬して盛り土をしたものが原型です。その塔婆を遠くからでも拝めるように、また尊敬の気持ちから、より高い台の上にお祀りするようになったのといいます。

◆釈迦苦行像・四天王像 東塔初重内に、仏壇四方に江戸時代の四仏を安置、四隅には平安時代の四天王像が安置されている。また、平成4(1992)に大川逞一仏師による「釈迦苦行像」が奉安されました。

■西塔 西塔は昭和56(1981)に復興。東塔と比較すると、塔の連子窓(れんじまど)に使われている色を「青」色、扉や柱に使われている色を「()」色と呼びます。

◆西塔の仏 沢田政廣仏師の手によって作成された釈迦成道(しゃかじょうどう)像・初転法輪(しょてんほうりん)像・釈迦涅槃(しゃかねはん)像・弥勒如来像を安置する。毎年3月の上旬から中旬まで内陣が公開。

■金堂 享禄元年(1528)、この地域の豪族の戦火に巻きこまれ、西塔などと共に焼失。その後、豊臣家が金堂の仮堂を建て、本格的な金堂の再建に取りかかる筈であったが、豊臣家滅亡などの事情で400年近く仮堂のままの状態。昭和42年高田好胤師が晋山し、全国に写経勧進に歩かれ、その結果、昭和51(1976)4月に白鳳時代様式の本格的な金堂として復興した。

薬師(やくし)三尊(さんぞん)[国宝] 金堂白大理石須弥檀上に本尊・薬師如来坐像(銅像)と、その脇侍、日光・月光(がっこう)菩薩立像を安置する。わが国仏教美術の最高傑作と称えられる。もとは鍍金(ときん)を施し金色であったが、お()(ぬぐ)いなどによって黒く艶光りする金属肌になったという。ふつう、薬師は左手に薬壷(やっこ)を持っているが、この像ははじめから持っていない。そのかわり法輪(ほうりん)が彫られているという。本尊台座[国宝]には、葡萄(ぶどう)唐草、その下の中框(なかかまち)四面中央には裸形鬼人(らぎょうきじん)(インドの神・夜叉(やしゃ))、下框には中国古来の東西南北の四神(しじん)(青竜(せいりゅう)白虎(びゃっこ)朱雀(すざく)玄武(げんぶ))を配する。その意匠はエキゾチックで中国唐から西域、ギリシャ・ローマ美術にまで溯るとされる。

■大講堂 昭和51年に金堂、同56年に西塔が落慶し、以後中門・回廊の再建工事と平行して大講堂の復元設計に着手。基本設計は西岡常一棟梁で薬師寺独自の様式で、現在の建築基準法に合わせ現代の技法を取り入れながら伝統工法による復元建築で最大級の建物。正面41m、奥行20m、高さは約17mあり伽藍最大の建造物。大講堂が金堂より大きいのは古代伽藍の通則で、これは南都仏教が教学を重んじ講堂に大勢の学僧が参集して経典を講讃したため。

◆弥勒三尊[重文] 大講堂の本尊。向かって右は法苑林(ほうおんりん)菩薩で、左は大妙相(だいみょうそう)菩薩。ところが江戸時代になって講堂を再建するために、もとの講堂本尊にちなんで阿弥陀三尊と名称を変え、さらに明治以降は、本薬師寺旧仏とのからみから薬師三尊と名称を変え、また平成15年に大講堂が復興されるに当たって、弥勒三尊と改められた。

仏足石(ぶっそくせき)[国宝] 753年の製作。仏足石は、菩提樹(ぼだいじゅ)や法輪などとともに、古代インドにおいて仏像が造形化される以前からブッダそのものの表現として、礼拝の対象となっていた。この仏足石は(かく)礫岩(れきがん)で、その側面には由来が刻まれており、インドのマガダ国の仏足石から写し取ったものを、繰り返し計4回写し取ったものがこれだという。おそらく写すごとにだんだん外回りへひろがっていって、こんなに大きくなってしまったものと考えられる。

◆仏足石歌碑[国宝] 8世紀の製作。粘板岩(ねんばんがん)に仏足石を賛美する歌17首と生死に迷う心を(しか)り成仏をすすめる歌4首を万葉仮名(まんようがな)で刻む。国文学史上貴重。

◆釈迦十大弟子像 釈迦の弟子で、中でも優れた十人が釈迦十大弟子。平成14年に彫刻家中村晋也師よりご奉納された。

■東院堂[国宝] 当初、養老年間(717724)吉備内親王(きびないしんのう)元明(げんめい)天皇の冥福を祈り建立、天禄4年(973)の火災で焼失。現在の建物は正面7間、側面4間の入母屋造本瓦葺で、弘安8(1285)に再建。高い基檀の上に建つのは、水害・湿気を避けるためであり、鎌倉時代後期の和様仏堂の好例。堂内には、白鳳仏を代表する聖観世音菩薩[国宝]が安置され、その四方は鎌倉時代の四天王像が守護している。

玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)院伽藍 1991年、法相宗(ほっそうしゅう)宗祖(しゅうそ)慈恩大師(じおんだいし)の師で、薬師寺が法相宗の始祖と崇める※玄奘三蔵の遺徳を讃えるため、あらたに造営された。中央の玄奘塔には玄奘の頂骨(遺骨)と坐像(大川逞一仏師の手によって作成)を祀り、その後ろの大唐西域壁画殿には平山郁夫(ひらやまいくお)が玄奘三蔵の足跡をおって、20年の歳月をかけて描いた大作「大唐西域壁画」を納める。

※玄奘三蔵(664) 中国河南省生まれの僧。釈迦本来の考えと自分の疑問に対する納得いく解答を求め、国法を犯し仏教のおこったインドに向かう。出発から帰国まで17年にもわたる求法(ぐほう)の旅であったという。のち、玄奘が語って門下がまとめた見聞録『大唐西域記』が完成し、これをもとに『西遊記』が創作された。

■佐佐木信綱歌碑 “逝く秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲"

■会津八一歌碑 “すゐえんの あまつをとめが ころもでの ひまにもすめる あきのそらかな”

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