京都観光タクシー同友会の観光案内
【梅宮大社】《祭神・
社伝によれば、※橘諸兄の母、県犬養橘三千代が綴喜郡井手町の井手寺内に橘氏一門の氏神として創祀され、その後、聖武天皇の皇后・光明皇后がこれを祀り、度々所在を変えたが、嵯峨天皇(52代)の皇后橘嘉智子によって現在地に遷座。その後、延喜式二十二社の中に列せられた。橘嘉智子には子がなかったが梅宮神に祈願したことで皇子(後の仁明天皇) を授かったといい、その伝承に因んで現在も子授け・安産の神として信仰される。祭神の名から酒造の神としても信仰されている。神紋は橘。
※橘諸兄 奈良時代の政治家。皇族の出身で敏達天皇5世の子孫。母は県犬養橘三千代。橘氏の祖。※藤原四兄弟 (武智麻呂,房前,宇合,麻呂) の死後,大納言,右大臣と躍進し,玄ム,吉備真備らと結んで政界の新興勢力を形成。しかし,藤原広嗣の乱,恭仁京経営の失敗,藤原仲麻呂の台頭によって失脚する。
■主要社殿 本殿・随神門は1700年(元禄13)の再建。本殿は三間社流造で、屋根は檜皮葺。随身門は三間一戸の楼門で、入母屋造、屋根は本瓦葺。随身門内の左右には随身として豊磐間戸命・奇磐間戸命の二神の神像が安置されている。二神は天照大神が 天石窟から出た後、その殿門を守る神。
拝殿は1822年(文政5)年、桁行三間・梁行三間の入母屋造で、妻入、屋根は銅板葺。境内社の若宮社・護王社とともに京都府登録文化財に登録されている。
■またげ石 本殿の東側には「またげ石」と称される2個の丸石があるが、これを跨げば子が授かるとして信仰されている。詳しい由来は定かではないが、檀林皇后がまたがれたところ、皇子(仁明天皇)を授かったと伝える。夫婦一緒でないと、またげ石での子授けの祈祷を受ける事ができない。本殿の西側には「影向石」と称される3個の石は、熊野から飛来したカラス3羽が石と化したものという。
■神苑 東神苑:咲耶池の周りには、カキツバタ、花菖蒲、霧島ツヅシ。島の中にある茶席「池中亭」は「芦のまろ屋」ともあだ名され、平安時代の梅津の里の風景を歌った百人一首、大納言源経信 『ゆうされば かどたのいなば おとずれて あしのまろやに 秋風ぞふく』とある。時代劇のロケ地。
北神苑:勾玉池の周りに花菖蒲、八重桜、平戸つつじが日陰にはあじさい。
西神苑:梅林で、ラッパ水仙が咲く。江戸中期に本居宣長が梅宮に献木の梅に添えて『よそ目にも その神垣とみゆるまで うえばや梅を千本八千本』と詠んだ。椿は神苑全体に亘って植えてあり、約50種類。
■招福梅 当神社で採れた梅の実を、昔ながらで手作りした梅干しを授与。
■お百度こより お百度参りをされる方のために用意。
※藤原四兄弟 律令編纂や平城京遷都などに関わった不比等亡き後、四兄弟は元正天皇・聖武天皇の時代に渡り長屋王と政権の座を争ったが、長屋王の変で長屋王を追い落とした後、すでに公卿となっていた武智麻呂(大納言)・房前(参議)に加え、官人の推挙により宇合・麻呂も参議となり、9人の公卿の内四兄弟で4人を占め729年から737年までの間朝廷の政治を担った。四子政権時代には律令財政が確立される。四兄弟は737年の天然痘の流行により相次いで病死し、藤原四子政権は終焉を迎えた。その後四兄弟の子が若かったため、政権は光明皇后(不比等の娘)の異父兄弟で臣籍降下した橘諸兄が右大臣として担うことになった。その後は、四兄弟のうち宇合の息子広嗣が740年に乱を起こし討伐された(藤原広嗣の乱)こともあり、孝謙朝に武智麻呂の子、豊成次いで仲麻呂が台頭するまで、藤原氏の高位官僚の不在時代がしばらく続くことになる。
梅宮大社の梅花!
![]() |
![]() |
![]() |
2011-2-27 | 2011-2-27 | 楼門 |
![]() |
![]() |
![]() |
本殿 | 2011-2-27 | 2011-2-27 |
![]() |
![]() |
![]() |
2011-2-27 | 2011-2-27 | 2011-2-27 |
![]() |
![]() |
![]() |
2011-2-27 | 2011-2-27 | 2011-2-27 |
京都検定HOME | おすすめ観光コース | 貸切料金表 | お薦め食事処 |
こだわり観光コース | 中井タクシーのブログ | お薦めお休み処・お土産 | |
紅葉観光コース | 観光社寺一覧 | タクシードライバーの研修会 |