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【宇治上神社】《祭神・応神天皇、仁徳天皇、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)0774-21-2067

 宇治神社の上社にあたり、菟道稚郎子皇子を主神とし、応神・仁徳天皇を配祀する旧村社で、もとは宇治郷全域を氏子としていたが、今は旧槇島村のみとなり、神社としてはまことにわびしいものとなっている。しかし、その建物はわが国現存最古の神社建築である点できわめて貴重な存在である。世界文化遺産

宇治上神社入口 拝殿 本殿

■拝殿[国宝(鎌倉)] (けた)(ゆき)六間、梁間(はりま)三間、単層、屋根は切妻造(きりづまづくり)の左右に(ひさし)をつけ、一見入母屋造(いりもやづくり)の形にみせ、正面に一間の向拝(こうはい)をつけている。中央は板唐戸とし、左右に(しとみ)()を用い、周囲に縁を設けて組高欄をめぐらす等、宇治離宮の遺構とつたえるにふさわしい寝殿造風(しんでんづくりふう)の住宅建築としている。

■本殿[国宝(平安)] 一間社、流造の三殿がならび建ち、左に菟道稚郎子皇子、右に仁徳天皇、中央に応神天皇を祀る。左右の社殿がともに大きいのにくらべ、中央のみがきわめて小さいのは、はじめ左の社殿一宇のみであったものが、のちに右の社殿を加え、さらに中央の社殿を加えて三殿としたからで、祭神の信仰の推移がしのばれる。社殿はいずれも平安時代の建築で、とくに左右両殿正面の蟇股(かえるまた)は、中尊寺金色堂・上醍醐薬師堂の蟇股とともに藤原時代の三蟇股といわれ珍重されている。また、左右の社殿の扉には童子・随身像四面(重文・平安)が描かれているが、数少ない藤原時代世俗画の資料として貴重な遺品である。

 さらにこの本殿を保護するために外面に設けられた覆屋(おおいや)[国宝(鎌倉)]は、五間三面、流造、桧皮葺とし、大まかな手法からなっている。

■春日神社本殿[重文(鎌倉)] 本殿の右にある末社で、一間社、流造、桧皮葺。小社ながらも鎌倉建築の特長をよく備えている。

◆桐原水 稚郎子皇子の桐原日桁宮址に因んで桐原水といい、宇治七名水(桐原水、阿弥陀水以外は廃絶)の一つに数えられている。

◆天降石 本殿の右にある大きな岩石をいい、一に「岩神さん」ともいう。その由緒をあきらかにしないが、古代磐座の遺跡と思われる。

【菟道稚郎子と仁徳天皇】

 応神天皇とその子菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)および仁徳天皇が祭神。宇治神社二社の上の社で、本社である下の社は菟道稚郎子のみをまつる。宇治上神社の社殿は藤原時代の建築で、三社連結して並び、現存する流造の最古のものとして知られ、鎌倉時代に覆屋(おおいや)が造られたので保存がよく、当初の優美さを伝えている。拝殿は菟道稚郎子が住んだといわれる宇治離宮を移したと伝えられるが現在の建物は鎌倉時代のもので、住宅風の様式を示し、本殿とともに国宝である。

 菟道稚郎子には多くの異母兄があった。父の応神は稚郎子を立太子とする意向であったが、晩年、応神は異母兄の大山守命(おおやまもりのみこと)大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)を召して問うた。
「長と少とはいずれが可愛いか」
「長子にしかず」と答えたのは大山守命である。
 大鷦鷯尊は父の気配を察知していたから、こう答えた。
「長子はすでに成人、案ずるところがありません。そこへいくと、若い子は先々が思われてかえって可愛さがつのります」
 応神は大鷦鷯尊の返答を大変に喜んで、稚郎子を嗣子と定めた。
 応神が崩ずると、大山守命は叛旗を翻す。宇治河畔に至った大山守は兵船を徴したが、皇子の船の魯をとったのはぼろ衣を着て百姓に装った稚郎子だった。船は河中で覆り、大山守は岸に着くことができなかった。
 兵難を逃れた稚郎子は、父の意に反し、皇位を兄の大鷦鷯に譲ることを宣した。大鷦鷯は稚郎子に再三の即位をすすめたが、彼は決して皇位につこうとしなかった。稚郎子は兄大鷦鷯の志のあることを見抜いていて、兄に皇位を譲るために自ら死を選ぶこととなる。大鷦鷯尊はのちの仁徳天皇である。

参考資料 昭和京都都名所図会 竹村俊則著より

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