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【唐招提寺】《律宗総本山》0742-33-7900

唐招提寺の瓊花 2011年5月1日

2011-5-1 2011-5-1 2011-5-1

 聖武天皇(しょうむてんのう)の招きに応じて、12年間の間に5回の難船に遭い、両眼失明という苦難ののち来日を果たした唐の※高僧・鑑真(がんじん)が、天平宝字3(759)年に創建した私寺。当初は簡素な宿院として発足、朝廷や藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)の寄進で伽藍(がらん)を整え、金堂は鑑真の死後の建立とされる。平安遷都の後、寺勢は衰えたが、鎌倉時代に僧・覚盛(かくじょう)が復興、江戸時代にも徳川5代将軍綱吉(つなよし)やその母・桂昌院(けいしょういん)の寄進で修理を加える。「天平の(いらか)」といえば、唐招提寺をさす。

山門 金堂 講堂
鼓楼 礼堂 経蔵・宝蔵
御影堂 戒壇 開山御廟

※鑑真(688〜763) 律宗(りっしゅう)の開祖。中国唐の揚州、大明寺の高僧。遣唐使(けんとうし)にしたがって入唐(にっとう)した僧らの熱望に動かされ、来日を決意したが、暴風・海賊のため5度の航海に失敗、その後失明。11年後に九州に着き、天平勝宝(754)年奈良へ入ったとき67歳であった。東大寺戒壇院(かいだんいん)を設立、聖武上皇はじめ多くの高僧に授戒。唐文化の紹介者としての功績は実に大きく、和上(わじょう)と尊称される。

■南大門 昭和35(1960)に天平様式で再建された。孝謙天皇(こうけんてんのう)宸筆(しんぴつ)と伝える勅額(ちょくがく)の複製を掲げる。勅額は、講堂もしくは中門に掲げられていたもので、東大寺西大門のものとともに、今に残る奈良時代の扁額で、その書風は、東晋の書家、王羲之(おうぎし)の書風にならった行書で、周囲に飾りがついていたという。

金堂(こんどう)[国宝] 鑑真の弟子如宝(にょほう)の建立と伝える8世紀後半の創建時の姿を残す代表的な建築物。外観は、正面間口七間(中央間は約4.7m、両端へは次第に狭くなり、3.3m)、奥行き四間の寄棟造(よせむねづくり)で、前面一間通りが吹き放ち、軒を支える組み物は三手先(みてさき)と呼ばれる形式で、その建立年代を示す。屋根西側の鴟尾(しび)は、創建当初のもので、今回の修理を機に平成の鴟尾に代えられることが決まっている。柱はかすかなエンタシスをもつ。

盧舎那仏坐像(るしゃなぶつざぞう)[国宝] 金堂の本尊で高さは、3メートルを超え、光背の高さは、5.15mにおよぶ巨像。天平時代に流行した脱活(だつかつ)乾漆(かんしつ)造で造像技術の優れた作例。背後の光背(こうはい)は千体仏で、本来は1000体であったといわれていますが、現存は864体。

◆薬師如来立像[国宝] 本尊の右方に立つ脇侍(きょうじ)で、高さ3.36m。平安時代初期に完成したと考えられる。木心乾漆(もくしんかんしつ)造。後世の薬師如来のように薬壷(やっこ)は持たず与願(よがん)施無畏(せむい)印を結び、壷形の光背を背負う。昭和47年の修理の際に左手掌から3枚の古銭が見つかり、その年代から平安初期であることが推定される。

◆千手観音立像[国宝] 本尊の左方に立つ脇侍。天平末期。木心乾漆造の遺例中最大の巨像で5.36m。実際に千手(大脇手42本、小脇手911本、計953本が現存)を持つ最古最大の像。光背の宝相華(ほうそうげ)火焔(かえん)透彫(すかしぼり)も見事。

梵天(ぼんてん)帝釈天(たいしゃくてん)立像[国宝] 天平末期の作。(ひのき)材の一木彫成だが、髪や衣文(えもん)の部分にかなり厚目の乾漆(かんしつ)を盛り上げて、木彫の欠点を補っている。

◆四天王立像[国宝] 須弥壇(しゅみだん)の四隅に立ち、造像技術、表現形式とも上記の梵天・帝釈天に共通している。

■講堂[国宝] 平城宮朝堂院(ちょうどういん)東朝集殿(ひがしちょうしゅうでん)を移築・改造したもので、天平時代の宮殿建築の唯一の遺構として貴重。外観は平屋の入母屋造で、現在の姿は鎌倉時代の改造によるところが大きい。法隆寺東院(とういん)伝法堂(でんぽうどう)と並ぶ天平期の数少ない例。内部は、本尊弥勒如来坐像[重文・鎌倉時代]と、持国天、増長天立像[重文・奈良時代]の他、多くの仏像が安置されている。

◆弥勒如来坐像[重文]  講堂の本尊で、高さ2.8m。構造は、寄木造りで、目鼻立ちも大きくはっきりとした力強い表情で、この点からも鎌倉時代の典型的な仏像。

◆持国天立像[重文・奈良] 細かく彫刻された衣紋の精巧さ、緻密さは同時代の木造像としてはあまり類例がない。

◆増長天立像[重文・奈良]  創建当時にさかのぼると考えられる木彫像。そのずんぐりとした力強い体型は、唐代の仏像を手本としていたもので、鑑真和上とともに来日した唐人の作といわれている。

鼓楼(ころう)[国宝] 鎌倉時代1240年建築。名称は「鼓楼」だが、現在は鑑真和上将来の仏舎利を奉安しているため、「舎利殿(しゃりでん)」とも呼ばれる。舎利容器は[国宝]指定。外観は、上下階とも扉と連子窓(れんじまど)で構成され、縁と高欄が取り付けられている。堂内の厨子には、仏舎利を収めた国宝の金亀舎利塔(きんきしゃりとう)が安置されている。

■経蔵・宝蔵[国宝] 天平時代の建築で校倉造(あぜくらづくり)。唐招提寺創立以前の新田部(にたべ)親王(しんのう)邸にあった校倉を改装したものと推定され、わが国最古の校倉。

■礼堂[重文・鎌倉] 南北19間の細長い建物の南側8間が礼堂、北側10間が東室、その間の1間は、馬道(めどう)と呼ばれる通路。講堂を挟んだ西側にも同様の建物があり、僧房として使用。礼堂は、隣の鼓楼に安置された仏舎利を礼拝するための堂で、内部に釈迦如来立像[重文]・日供舎利塔を安置。

■御影堂[重文・江戸] 元は、興福寺の別当坊だった一乗院宸殿の遺構で明治以降は県庁や奈良地方裁判所の庁舎として使われたものを昭和38(1964)移築復元したもの。現在は、鑑真和上坐像[国宝]が奉安されており、東山魁夷画伯が描いた鑑真和上坐像厨子扉絵、襖絵、障壁画が収められている。

鑑真和上(がんじんわじょう)坐像[国宝] 御影堂(みえいどう)に安置。脱活乾漆造(だっかつかんしつづくり)、天平時代の作。わが国肖像彫刻のうち最古の作で、かつ最高傑作。763(天平宝字7)年、和上の死を予感した弟子らが造ったと伝える。

◇御影堂拝観 鑑真和上の命日、66日の開山忌にちなみ、657日に公開。

■新宝蔵 唐招提寺が伝える 多くの文化財を管理・収蔵するために昭和45(1970)に建てられた鉄筋コンクリートの収蔵展示施設。金堂に安置されていた木造大日如来坐像[重文]のほか、旧講堂木彫群と呼ばれる、奈良時代末期に制作された多数の木彫像が収められ、通年で公開されている。

■戒壇 石段のみ鎌倉時代。金堂の西側にあり、僧となるための授戒が行われる場所。創建時に築かれたとされているが、中世に廃され、その後再興されたものの火災により建物は焼失。現在は、3段の石壇のみが残り、その上に昭和53(1980)にインド・サンチーの古塔を模した宝塔が築かれた。

■開山御廟 境内の北東に位置する鑑真和上の墓所。同時期の高僧の中では唯一、1250年の永きに亘って、参拝する人が途絶えない。現在は御廟前に和上の故郷・揚州から贈られた瓊花が植えられ、初夏にその可憐な花を咲かせる。

◇うちわ撒 519 日鎌倉時代に戒律の復興を志し、唐招提寺の再興に努めた覚盛上人の徳を偲び、午後4時から鼓楼でハート形の魔よけのうちわを撒き、群衆が争って拾う。

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