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【勝持寺(花の寺)】《天台宗》075-331-0601
花の寺の紅葉 2010年11月
2010-11-21 | 2010-11-21 | 2010-11-21 |
寺伝では白鳳時代、役行者の開基で、791(延暦10)年、最澄が堂宇を再建したと伝える。当初は大原寺と称したが、852年(仁寿2)、大原野神社の神宮寺となったことから勝持寺と改められた。応仁の乱で焼失後、天正年間(1573^92)に織田・豊臣両氏により復興された。その後、徳川桂昌院は崇仏の念あつく、堂宇の修復に努めたという。平安時代の末期、※西行法師がこの寺で出家して庵を結んだと伝える。また、※木下長嘯子もこの寺域に隠棲したという。
※西行法師(1118^1190) 佐藤義清といい、平安末期の歌人。鳥羽上皇の北面(警護)の武士だったが、1140(保延6)年に出家し、漂泊の生活を送るようになった。当時の和歌の第一人者。『願はくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ』(もし、願いがかなうものなら、桜の花が咲きにおう花のころ死にたい。そして、もっと、できることならお釈迦様がこの世からなくなられた二月十五日(陰暦)に。私が生涯好んだ月も満月だから)
※木下長嘯子 1569~1649 名は勝俊。近世初頭の歌人として高い大名。豊臣秀吉の正室北政所の実兄木下家定の養子。慶長五年、関が原に先立ち徳川家康の武将鳥居元忠と共に伏見城を守っていたが、石田三成の軍勢に攻撃され伏見城を放棄し脱出。これを咎められ小浜六万八千石を没収。後、再び家康の怒りを買い京都東山、のち西山に隱栖し世を終えたという。
西行桜 |
■仁王門 境内の南東端にある。応仁の兵火を免れた最古の建物であるが、幾度かの改築によって旧構を失う。
■瑠璃光殿 所蔵の仏像を安置する収蔵庫。近年まで木造如意輪観音半跏像[国宝]が安置されていたが、東隣りの宝菩提院願徳寺のほうに移動された。収蔵されている主な彫像は本尊薬師如来坐像[重文]・薬師如来坐像(胎内仏)[重文]・金剛力士像2躯(仁王門)[重文]など。
◆西行桜 西行(1118〜90)は世を捨ててのちこの寺で出家剃髪したといわれ、その折りに植えた桜と伝える。当時の和歌の第一人者。『願わくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ』(もし、願いがかなうものなら、桜の花が咲き匂う花のころ死にたい。そして、もっと、できることならお釈迦様がこの世からなくなられた陰暦二月十五日に。わたしが生涯好んだ月も満月だから)
◆姿見ノ池・鏡石 鏡石は光沢があり、西行が剃髪に用いたものといわれ、その傍らに姿見ノ池と称する小さな池がある。
◆賓頭盧尊者 今から2500年前のこと。お釈迦さまの弟子のなかで賓頭盧という修行者がいた。賓頭盧は毎日熱心に修行に励んでいたが、困ったことにお酒が大好き。お釈迦さまにないしょうで、修行のあいまに、ちびりちびりと飲んでいた。そのことをお釈迦さまから注意され、「飲まない」と釈迦に約束した。しかし、「ちょっとだけ」と釈迦との約束を破り、お酒を飲んでしまった。これを知ったお釈迦さまは、賓頭盧をほうり出してしまう。反省した賓頭盧は一大決心をして、自分で一生懸命に修行した。その様子にお釈迦さまは、本堂外陣でならと、そばにいることを許したという。
賓頭盧さんは今でも赤い顔をしたまま、本堂のわきにおまつりされている。痛いところをなでるといやしてくれるという「なでぼとけさま」。
参考資料 昭和京都都名所図会 竹村俊則著より
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