京都観光タクシー同友会の観光案内
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文永5年(1268)東巌慧安が、烏丸今出川に創建したのが起こり。宋の兀菴普寧禅師が慧安に与えた「正法」の寺額を以って寺名にしたといわれる。慧安が元寇にあたり、石清水八幡宮に祈念し、「末の世の末の末までわが国はよろずの国にすぐれたる国」とうたって戦意高揚につとめたことは史上に有名。この慧安の行動に対し、亀山天皇から「護国」の山号が与えられて寺運も隆盛したが、聖護院や叡山衆徒によって焼討ちされる。その後、現在地に移ったが、応仁の兵火によって多くの塔頭子院とともに焼亡、明治維新後は全く衰微するにいたった。
山門 | 中門 | 参道 |
拝観入口の秋明菊 | 方丈庭園(獅子の児渡し)・桜 | 方丈庭園(獅子の児渡し)・サツキ |
■方丈[重文] 1653年、伏見城の御成殿を移したと伝える。前面に一間の広縁を設け、背後に張り出しをつくり、南と西および東北一部に落縁を付している。内部は六室に別れ、前面中央を室中とし、天井は折上小組格天井としている。その奥に仏間があって、中に兀菴と慧安両禅師の頂相、本尊・釈迦牟尼仏を安置。室中の左右には各十畳間、仏間の左右には六畳間があって、その一方には違棚、一方には帖台を構え、立派な飾金具を打ち、狩野山楽の筆になる淡彩山水画の障壁画が描かれ、唐草や菊桐文の彫られた襖の鍍金引手金具などに伏見城の遺構たる殿舎風の伝統を示している。
◆血天井 方丈広縁の天井は伏見城に立てこもった徳川方の鳥居彦左衛門元忠以下1200余名が割腹して果てたとき、血痕のついた廊下の板を天井にしたものと伝える。血天井は、他に源光庵・宝泉院・養源院・興聖寺などに残る。
◆方丈前庭園 比叡山を借景とする枯山水庭園で小堀遠州の作という。白壁に三方を囲まれ、地面は一面に白い砂利に覆われている。白川砂が使われており、熊手で幾筋にも描かれた模様は白波の様。正面の壁側には、サツキやヒメクチナシなどの混生した低木樹群が丸く刈り入れられ、右から七つ、五つ、三つのかたまりになって並び「獅子の児渡し」と呼ばれる。約110坪の小さな庭だが、手前から白と緑の色彩の枯山水、同寺を囲む木々、優雅な比叡山の借景と、三段階の空間的な広がりが調和し、一つの風景を形成する。一般的に、石組を主とし、水を表現するのに砂れきを用いることが多い枯山水の庭だが、ここは一石も使っていない珍しい庭。小堀遠州没後六年後に同寺が現在の場所に立ったことから遠州の弟子が作ったのではないかといわれている。
参考資料 昭和京都都名所図会 竹村俊則著より
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