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崇道(すどう)神社】祭神(さいじん)・早良親王》Tel075722-1486

 社伝によれば、早良(さわら)親王(しんのう)(崇道天皇)を祭神とする旧高野村の産土(うぶすな)(かみ)。一説に小野氏の祖神を祀った小野神社、あるいは出雲高野神社の後身ともいわれる。

 早良親王は反桓武勢力の中心と目され、延暦4年、藤原(たね)(つぐ)の暗殺事件に連座し、捕えられて淡路に配流のとき、食を絶って憤死した。その後、都に悪疫が流行し、多くの人々が病死するに至ったのは親王の(たた)りといわれ、その怨霊をなだめるために崇道天皇の追号を贈り、貞観5(863)には神泉苑で御霊会が修せられた。その後、御霊は悪疫をもたらす神として畏敬され、また、村の出入口に祀ってその侵入を防いだという。

崇道神社参道 本殿 伊多太神社
五味藤九朗碑 小野毛人墓 小野毛人墓から市中を臨む

■小野神社 末社の一つとして、境内に鎮座する。貞観元年(859)従五位下に叙せられ、延喜の制には官社となり、国家の祭祀にあずかった小野氏一族の氏神社であるが、小野氏の衰微によって早くその鎮座地を失った。昭和46年、地元の人々が新たに社殿を再建。

■出雲高野神社 末社の一つ。出雲氏の奉祀する神社で、延喜の制には官社に列せられたが、祭神や由緒を明らかにしない。一説にもと出雲路にあったのを、この地(小野郷)に移したものといい、現在の上御霊神社は当初の後身だろうといわれる。社殿は昭和51年の再建。現在の祭神は玉依姫命(たまよりひめのみこと)としている。

伊多太(いただ)神社 末社の一つ。延喜式内の大社に列せられる有数の大社であったが、応仁の兵火にかかって衰微した。もとこの地の地主神とみられ、農耕守護神として創祀されたものと思われる。もと三宅八幡社に至るところにあったが、明治41年、崇道神社境内に移された。

■崇道神社之碑 大正14年当時の区長長井口又兵衛氏等、有志の人々によって建てられた石碑で、表面に内藤湖南博士撰文による銘文が漢文で刻まれている。崇道神社、末社の合祀等の経緯を記している。

五味(ごみ)藤九朗(とうくろう) 上高野は地勢が水路より高く、むかしは上流より(かけひ)を架して水を引き、田畑の用水としていたが、これがよく破損し、村人を困らせていた。江戸時代、京都代官五味藤九朗は、この窮状を救うため、以前の八瀬遊園地に桜井堰を設け、御蔭神社の北より巨岩を切り通し、隧道をつくって水を通したという。この功績を後世に伝えるため、村人達によって建立された。

小野毛人(おののえみし)墓誌[国宝] 崇道神社より背後の山中を登ること約140mに封土円墳の墓があり、墳上に内藤湖南博士筆の「小野毛人墓碑」としるした石碑がたっている。この墓は人が踏むとひびくので、久しく怪しまれていが、慶長18(1613)土地の人が柴刈りに行って古墳であることを発見し、石室から鋳銅製の墓誌が発見されたことから一躍有名となった。墓誌は国宝に指定され、京都国立博物館に保管されています。

※小野毛人 推古天皇の御代に(けん)隋使(ずいし)となった妹子(いもこ)の子で、天武天皇6(677)に没した小野氏の名士。毛人の子毛野(けぬ)の時代に亡父の業績を顕彰するため、追納物として墓誌が作られたものといわれている。

参考資料 昭和京都都名所図会 竹村俊則著より
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