京都観光タクシー同友会の観光案内
新京極の寺
誓願寺本堂 | 誠心院和泉式部塔 | 蛸薬師 |
【誓願寺】《浄土宗西山深草派総本山》TEL075-221-0958
寺伝によれば、はじめ天智天皇の勅願寺として、南都に創建されたといい、のちに紀伊郡深草(伏見区)に転じ、平安遷都にあたって元誓願寺小川の地に移ったと伝える。はじめ三論宗であったが、二十一世蔵俊僧都のとき、法然上人源空に帰依して浄土宗に改めた。中世粟生光明寺とともに浄土宗西山派の代表寺院となった。現在地に移ったのは1585年(天正13)のことで、塔頭子院18宇を有する大寺となった。明治に新京極開設にあたって寺域を縮小した。
■本堂 昭和39年(1964)、鉄筋コンクリート造り、二階建てとして再建。本尊阿弥陀如来を安置する。
◇京都六阿弥陀巡り 他に真如堂・禅林寺(永観堂)・清水寺・安祥寺・安養寺
◇円光大師(法然上人)二十五霊場の一つ。
■奇縁氷人石 門前左手に「迷子道しるべ」の石柱がある。迷子の告知板であり、むかしは人の出さかる神社仏閣の境内に建て、迷子の行方を探し求めた。他に北野天満宮、八坂神社にある。
■墓地 六角通をへだてた北側に総墓地があり。落語の始祖といわれる安楽庵策伝、我が国で人体解剖を始めて行った江戸中期の医師※山脇東洋、幕末の国学者穂井忠友、歌舞伎芝居「桂川連理柵」のモデルといわれるお半・長右衛門等、公家・上層町衆の墓が多い。
※山脇東洋(1705~62) 江戸中期の医師。丹波亀山出身の医師清水立安の長男。1754年(宝暦4)に死体を解剖し、「蔵志」を著して有名となる。
■寺宝 誓願寺縁起3幅[重文]・毘沙門天立像[重文]等
【誠心院】《真言宗泉涌寺派》TEL075-221-0958
俗に「和泉式部寺」とよばれる。平安時代に藤原道長が※和泉式部のために建立した小御堂が寺の起こりと伝える。和泉式部の没後、その法名誠心院に因んで寺名にしたと伝える。一旦は廃絶したが、のちに吉田神楽岡に再建されたが、その後上京の誓願寺傍らに塔頭として再建された。天正年間、豊臣秀吉の命で誓願寺とともに現在地に移転する。誠心院は、以前は「じょうしんいん」とよんでいましたが、先代住職の頃から「せいしんいん」と呼ばれている。
※和泉式部 平安中期の歌人。越前守の大江雅致の娘。和泉守の橘道貞の妻となり、夫の任国と父の官名を合わせて「和泉式部」の女房名をつけられた。一条天皇の中宮藤原彰子に女房として出仕。情熱的な一生を送り、恋愛歌人として有名。「和泉式部日記」「和泉式部集」は著名。
■本堂 明治44年(1911)の類焼後の再建。本尊阿弥陀如来像を安置。その傍らに和泉式部法体の像および藤原道長や上東門院彰子の像を安置する。
◆境内墓地 和泉式部塔と称する石造宝篋印塔[重美・鎌倉]や檀越として寺の再興に尽力した加賀大聖寺城主山口宗永および江戸中期の俳人池西言水の墓などがある。
【蛸薬師(永福寺)】《浄土宗西山深草派》TEL075-255-3305
寺伝によれば、この寺の本尊は、もと室町二条下ル蛸薬師町にあった永福寺の本尊・石造薬師如来。かつてこの寺に善光という親孝行な僧がいて、あるとき、病の母の願いにタコを買ってきたところ、僧の身で生魚を持つのを怪しんだ人々が無理に箱のふたを開けようとした。進退につまった善光は、日頃信仰する薬師如来を祈念したところ、タコは変じて薬師経となり、母の病もまた薬を用いずして癒えたととう。これより庶民は寺を蛸薬師とよび、その霊験譚はいちやく世上に流布し、庶民の信仰を得るにいたったと伝える。
永福寺は天正年間、現在地に移転して円福寺の子院となったが、円福寺が明治に三河国の妙心寺と寺地を交換したため、今は妙心寺の境内別堂となっている。
参考資料 昭和京都都名所図会 竹村俊則著より
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