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京都観光タクシー同友会の観光案内

賀茂御祖(かもみおや)神社(下鴨神社)TEL075-781-0010

 (ただす)の森に鎮座する京都における最も古い神社の一つ。本来は雷神を祀って稲の豊穣を祈った神社で、はじめは井泉を神格化し、五穀豊穣を祈ったのがそもそもの起こりであって、のち、人格化されて女性の水神となり、これに仕える巫女が玉依姫命(たまよひめのみこと)の信仰へと進化したものと考えられる。上賀茂神社とは祭祀・行幸等は同じ日におこなわれ、まったく一社のようになっているので、両社を称して単に賀茂神社ともいう。平安遷都以降は王城の守護神とあがめられ、伊勢神宮につぐ崇敬を得た。中世には山城国一宮となり、明治初年には官幣大社に列せられたが、第二次大戦後は国家の庇護を脱して、ひろく市民の崇敬を得ている。

楼門 舞殿 本殿入口
御手洗川 御手洗池 河合神社・鴨長明の庵

■本殿[国宝] 1863(文久3)の再建。三間社流造、檜皮葺。上賀茂神社本殿と同じ形式からなる。東西に並ぶ2棟の社殿は、左に賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)、右に玉依姫命を祀る。また、幣殿(へいでん)をはじめ55棟からなる多くの社殿[重文]は、いずれも1628(寛永5)の建造で、古式をとどめ、昔の貴族住宅を忍ばせる。

◆幣殿[重文] 正面中央に軒唐破風(のきからはふ)を付けた建物で、515日の葵祭に幣物を捧げるところ。

舞殿(まいどの)[重文] 葵祭のとき、勅使が祭文を奏し、舞人が東遊を舞うところ。

◆橋殿[重文] 512日の御蔭(みかげ)祭の時、行列の神宝を奉安するところ。古くは御戸代会神事のとき、奏楽・里神楽・倭舞が行われ、行幸のときは公卿・殿上人の控え所に定められた。

細殿(ほそどの)[重文] 享保年間、霊元天皇行幸のとき、御座所となり、歌会が行われた。天明年間、内裏火災のとき内侍所の奉安所となった。

神服殿(しんぷくでん)[重文] 夏冬の御神服を奉製するところで、勅使殿または着到殿ともいう。天明・嘉永両度の内裏火災のときには天皇の御座所となった。爾来、行幸のときの玉座の間となり、現在は「開けずの間」と称している。

供御所(くごしょ)[重文] 大炊所ともいう。寺の庫裡に相当する建物で、東・中・西の三間があり、東の間(供御所)は神饌を調理いるところ。中の間は御菜魚鳥を調理するところ。西の間は(侍所)は神官の参集するところで、直会(なおらい)勧盃(かんぱい)なども行われる。

三井(みい)神社 本殿の左にある摂社の一つで、中央に賀茂建角身命、左に玉依姫命、右に伊可古夜(いかこや)(玉依姫母)を祭神とする。延喜式内の大社として、古来本社におとらぬ崇敬があったといい、『山城国風土記』逸文に記す。

■御手洗社 瀬織津姫命(せおりつひめのみこと)を祀る。井戸の上に社殿があるので、一に「井上社」ともいい、社殿は一間社流造、檜皮葺の小社であるが、向唐破風(むこうからはふ)をもつ覆屋(おおいや)を設け、大瓶束(だいへいつか)の左右には牡丹を彫刻した笈形(おいがた)がある。

夏越(なごし)(はらえ) 社前の池は禊祓(みそぎはらえ)の斎場とされ、毎年立秋前夜、この池中斎串(いぐし)50本を立てて行われる。さらに式後、参拝者が斎串を争って奪い合うことから、「矢取ノ神事」ともいう。矢をとるということは、福を得ることと信じられ、また、勝負に勝つともいう。また、子のないものは、矢を持ち帰って神棚に供えると、必ず子供を得ると信じられている。

◇御手洗会 毎年土用の丑の日におこなわれる。池中に足をつけると夏痩せをふせぎ、病気にかからないといわれ、また、安産守護の信仰がある。

◇みたらし団子 下鴨神社の氏子たちが神饌菓子として作ったのが始まりで、原形は平安時代まで遡り、当時から神聖なものだった。みたらし団子は、下鴨神社境内の御手洗池に湧き出る水玉を模したとも、また、1本の串に5個の団子を通して、一つ目と二つ目の間が少し離れているのは、人間の5体の頭と両手、両足を表していると思われる。五体が満足であるようにという願いが込められたものではなかろうか。神社近くの加茂みたらし茶屋で食せる。

■河合神社 正しくは鴨川合坐小社宅(かものかわいにますおこそやけ)神社という。玉依姫命(本社祭神とは同名異神で神武天皇の母をさす)と上下賀茂社の苗裔神を祭神としている。社宅(こそやけ)とは社戸(こそべ)の意で、神に祈願することを世襲とする賀茂社の社家をいう。ちなみに、『方丈記』の筆者鴨長明は、当社の社家に生まれ、河合社の禰宜を望んで果たせず、世をすてて出家したという。

□糺の森 「ただす」は只洲とも記し、賀茂・高野川の合流するところにできた川洲によるが、河合神社の祭神多々須玉依姫に因んで多々須の森、社名に因んで河合の森とも称する。さらに「偽りをただす神のしずまります森」にたとえ、糺の文字をあてはめたものであろうといわれている。平安時代には水辺にてみそぎ祓が行われた清浄な地であったが、中世には勧進猿楽(かんじんさるがく)の興行が行なわれて、市民の集会の場ともなった。近世にはもっぱら納涼の場として親しまれた。これを『糺の納涼(すずみ)』といった。

参考資料 昭和京都都名所図会 竹村俊則著より

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