京都観光タクシー同友会の観光案内
【近江戦国時代の城】「近江を制するものは天下を制する」
【小谷城跡[史跡]】
湖北町の東部、浅井町との町境に横たわる小谷山頂にあり、琵琶湖や湖北一帯の眺望がよい。北近江の守護京極氏に仕えていた浅井亮政は、1516(永正13)年、小谷城を開き、ここを拠点に湖北一帯を支配した。浅井長政は三代城主。長政は織田信長の妹・※お市の方と結婚、信長とは姻戚関係にあったが、信長の朝倉攻めに際し、朝倉氏との今までの関係から信長に反旗を翻す。姉川の合戦においては信長・家康軍に致命的な敗退を喫し、天正元年(1573)、小谷城は信長によって落とされ、久政・長政はこの城で自刃した。
※お市の方→織田信長の同母妹。信長の政略によって小谷城主浅井長政に嫁いだのは十七歳の時。しかし、信長に対し離反した長政は、1570(元亀元)年姉川の合戦で敗れ、3年後、小谷落城とともに自決。お市の方は、三人の娘とともに実子万福丸を殺した信長の下に引き取られる。信長没後、やはり甥の神戸信孝の政略で、柴田勝家に嫁ぐが、半年後には秀吉に攻められ、勝家とともに自害する。残された三人の娘はいずれも美女の誉れ高く、長女の茶々は秀吉側室淀君、次女の初は京極高次夫人、三女の江与は徳川二代将軍・徳川秀忠の御台所(正室)となり、三代将軍家光を産む。浅井・織田家の血は、徳川家へと受け継がれることになる。
【姉川古戦場】 浅井町の南端と長浜市を分断して流れる姉川野村橋のあたり。元亀元年(1570)、浅井長政は越前守護朝倉氏と組み、姉川を挟んで信長・家康軍と激突する。浅井方1万8000、信長方3万。信長の圧倒的勝利に終わり、浅井軍は小谷城へ退却する。
【佐和山城】 彦根城とは東海道本線を挟んで対峙する佐和山に築かれた。※石田三成は5層の天守を構えた立派な城を築き上げたが、彦根藩の徹底した廃城政策の結果、旧態を留めるものは何もない。
※石田三成→近江坂田郡石田村(長浜市石田町)に生まれる。三成15、16歳のころ、当時長浜を領していた秀吉に認められ側近となる。秀吉が関白に就任する1585年、従五位下治部少輔に叙任、さらに翌年、堺の奉行を兼ねる。五大老五奉行制がひかれると、三成は五奉行の一員となって大阪城に居城する。秀吉没後、慶長五年九月、反徳川勢力を結集して臨んだ関ヶ原の戦いで惨敗。逃走中に捕らえられた三成は、十月一日、京の六条河原で処刑された。
【安土城跡[特別史跡]】 1576(天正4)年、織田信長は佐々木氏の臣であった目賀田氏が拠っていた安土山を譲り受け、丹羽長秀を総奉行として築城に着手、天下布武の根城とした。外観5層内部7階の天守閣は金箔瓦を戴き、狩野永徳の襖絵や異国の文物が室内を飾ったという。本能寺に信長が倒れた後、一時明智光秀が入城したが、山崎の合戦後の混乱による兵火、または土民の放火で焼亡。
【長浜城】 豊臣秀吉が始めて一国一城の主となった城。江戸初期に廃城となったが昭和58年に3層5階建ての天守閣が再建された。現在、長浜城歴史博物館(無休)として内部が公開され、賤ヶ岳合戦屏風や琵琶湖湖底から発見された縄文土器などを展示。最上階は展望台。また、一帯の豊公園は桜の名所。
【彦根城[特別史跡]】 1622(元和8)年、井伊直政の遺志を継いで、子の直継が20年をかけて彦根山(金亀山)に築城。近江に残る豊臣色一掃の目的を兼ねて、資材は大津・小谷・長浜・安土・佐和山などの城の石垣や用材を使用した。明治の廃城令や戦災を免れ現在も旧態をとどめる稀有の城である。
【観音寺城】 近江源氏佐々木六角氏の居城として、室町中期頃から次第に整備されたと見られ、山麓から頂上本丸まで無数の石塁、郭を築き、井戸や排水溝などを完備した一大要塞で、山城としては日本一の規模を誇っていた。1568(永年11)年織田信長に攻められ、城主六角承禎父子が甲賀へ逃れ廃城となる。
【八幡山城】 1585(天正13)年、豊臣秀次は近江四十三万石の居城を八幡山に築き、山麓には湖への運河を兼ねた外堀“八幡掘”を引いて安土城下の人々を移し住まわせた。秀次の死後、京極高次が入封したがまもなく廃城となる。
【大津城跡】 浜大津港の西側一帯。戦国時代末期に築城。関ヶ原の戦いでは、京極高次が籠城し西軍に抗したが1ヶ月後落城した。
【坂本城跡】 下坂本・東南寺の門前に坂本城跡の石柱が立っている。1571(元亀2)年、明智光秀が叡山焼討ち後、居城としたもので、叡山の監視と西近江・坂本港を押える要衝の地にあった。その後光秀が山崎の合戦で敗れたため一族の明智秀満は城を焼き、自殺したという。
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