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【清凉寺(嵯峨釈迦堂)】《浄土宗》℡075-861-0343

 左大臣源融(みなもとのとおる)が営んだ山荘、栖霞観(せいかかん)の跡で、死後、阿弥陀堂が建立され、栖霞寺(せいかじ)と呼ばれていた。986年(寛和2)東大寺の僧・奝然(ちょうねん)が宋から帰国し、中国の五台山にならって愛宕山に五台山清凉寺を建立しようとしたが果たせず、死後弟子の盛算(じょうさん)が意志を継ぎ、栖霞寺内に釈迦堂を建立し、奝然が請来した釈迦如来を安置、これが清凉寺の始まりとなる。清凉寺ははじめ華厳宗(けごんしゅう)であったが、平安末期、釈迦如来に対する信仰を得て、天台・真言・念仏宗を兼ねた寺として次第に発展。法然上人も若き修行僧のころ、清凉寺において七日間参籠したという。栖霞寺は貴族の没落とともに寺運は次第に衰退し、終には清凉寺境内の阿弥陀堂となって合併される。

仁王門 本堂 阿弥陀堂
輪蔵 多宝塔

■仁王門 1777年(安永6)の再建。重層の楼門(ろうもん)で上層内部には十六羅漢像(らかんぞう)を安置し、下層左右には1487~9年作と伝える金剛(こんごう)力士像(りきしぞう)を安置する。

■本堂 1701年(元禄14)徳川五代将軍綱吉の発願により那波・住友などの富豪と一般の人々の寄進によって再建。正面?上(びじょう)にかかげる「栴檀(せんだん)瑞像(ずいぞう)」の大額は、黄檗(おうばく)隠元(いんげん)禅師(ぜんじ)の筆。内陣須弥壇上には徳川(けい)昌院(しょういん)(綱吉の母)の寄進と伝える豪華な厨子(ずし)があり、本尊釈迦如来を安置する。

◆釈迦如来立像[国宝] 奝然が宋人に優?王(うでんおう)所造の栴檀釈迦瑞像をまねて造像させた。三国伝来の像といわれるだけに特異な容姿をもち、高さ160cm、施無畏(せむい)()願印(がんいん)を結び、衣は両肩から波紋を広げたように落ち、裾で規則正しい段をなす。また目は黒い珠、耳に水晶をはめ込み、縄状の頭髪になっている。この様式は清凉寺式と呼ばれる。昭和28年、釈迦像胎内より奝然の納めた瑞像造立記などの文書・御経、さらに五色の絹で作られた五臓など貴重なものが納められていることが発見された。

阿弥陀堂 1863年(文久3)の再建。旧栖霞寺の本堂で、唯一の名残をとどめる。本尊阿弥陀三尊像[重文・藤原]は創建当時のものであるが、現在境内霊宝館に収蔵され、かわりに新しい阿弥陀像や如意輪観音像等を安置する。

■多宝塔 1700年(元禄13)本尊釈迦仏が江戸の護国寺に()開帳(かいちょう)をされたとき、江戸市民の寄進によるものと伝える。

◆源融塔 多宝塔の背後にある。石造宝篋印塔(ほうきょういんとう)(鎌倉)をいう。供養塔として後世につくられたもと伝える。融の墓は他に(しょう)(せい)(えん)(枳殻邸)にもある。

■鐘楼 鐘楼自体は近年の再建。銅鐘は1484年(文明16)融通念仏の聖・宝鎮上人が本願主となり、足利義政とその夫人日野富子、将軍足利義尚(よしひさ)および数百名の無名の僧俗男女の寄進によってつくられたもので、鎌倉時代以降、融通念仏の道場として栄えた清凉寺の信仰上の歴史を物語る貴重な遺品である。

■経蔵(江戸) もと奝然請来の蔵経が納められていたが、現在は伝大士と笑仏を安置し、輪蔵に明版大蔵経を納める。

◆八宗論池 経蔵の前にある小さな池をいう。寺伝によれば、弘法大師空海が南都八宗の学僧と宗論におよんだとき、この池をめぐって問答し、相手を論破した。

弥勒(みろく)多宝塔石仏(鎌倉) 池の東にある。表面に弥勒菩薩坐像、裏面に多宝塔を刻み出しているのが珍しい。寺伝では空也上人の作といい江戸時代には「空也上人塔」といわれ、空也僧は寒夜鉢を叩いて来詣したという。

◇嵯峨お松明式 毎年3月15日の夜8時から境内にて行われる。松明は高さ7m余、松の枯枝や藤づるなどで巧みにゆわえ、漏斗(じょうご)形に組立てたものを三本つくり、これを本堂前に鼎立(ていりつ)させ、合図によって火をつける。この松明の火勢の強弱によって、この年の農作物の豊凶を占う。

◇大念仏狂言 毎年4月に行なわれる融通大念仏に際し、境内の狂言堂で行なわれる郷土臭のあわれる素朴な狂言をいう。鎌倉時代に円覚上人が庶民に教義を説くために創始されたとつたえ、囃子は鐘や太鼓・笛で奏し、所作はすべて無言で行なわれることは壬生狂言と同じ。謡曲「百万」は、この大念仏を舞台として作られている。

◇お身拭式 毎年4月19日、本尊の釈迦仏を拭いきよめる儀式をいう。西芳寺から送られてきた水で香をたきこめ、白布にひたし、死後着用すれば極楽往生するといわれ、敬虔な信徒は競ってこれを授かるために群参する。世にこれを「嵯峨のお身拭」と称し、「知恩院のお身拭」とともに有名。

◆墓地 円覚上人塔は八角石幢(鎌倉)をそれとつたえるか、確証はない。また遊女夕霧墓は同じく右同所の傍らにあり三基の小五輪石塔をいう。墓石の台石に「扇屋」ときざまれている。夕霧は島原の扇屋の抱え遊女となったが、1672年、大阪新町に移り、1678年正月6日、26歳で没した。

■薬師寺 薬師瑠璃光如来(やくしるりこうにょらい)坐像を本尊とし、背後の左右壇上には嵯峨天皇坐像(室町)・阿弥陀三尊像およびもとこの付近にあった福生寺の遺仏とつたえる地蔵菩薩坐像(鎌倉)・小野篁(おののたかむら)像等を安置する。因みに福生寺(ふくしょうじ)は「生六道(しょうろくどう)」ともいい、小野篁が冥土より帰り着いたところとつたえる。

参考資料 昭和京都都名所図会 竹村俊則著より

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