京都検定合格タクシーHomePageはこちら⇒

HOMEへ 

京都の観光はタクシーで!~50%割引あり

京都観光タクシー同友会の観光案内

【竜安寺】臨済宗妙心寺派》075-463-2216

◆龍安寺の紅葉 2010年11〜12月

2010-12-5 2010-12-5 2010-12-5
2010-12-5 2010-12-5 2010-12-5
2010-11-27 2010-11-27 2010-11-27
2010-11-27 2010-11-27 2010-11-27
2010-11-27 2010-11-27 2010-11-27

◆龍安寺の桜花2011年4月

2011-4-14 2011-4-14 2011-4-14
2011-4-14 2011-4-14 2011-4-14
2011-4-14 2011-4-18 2011-4-18

 1450年(宝徳2)、室町幕府の管領(かんれい)細川(ほそかわ)勝元(かつもと)(とく)大寺家(だいじけ)の山荘を譲り受け、妙心寺義天(ぎてん)和尚(おしょう)を開山とし寺に改めた。当時、威容(いよう)を誇ったが、応仁の乱やその後の火災で焼失する。その後は細川家の菩提寺(ぼだいじ)として絶大な庇護(ひご)をうけ、豊臣秀吉、徳川家康等からも寺領の寄進をうけた。塔頭(たっちゅう)20余りの大寺となったが江戸中期、方丈(ほうじょう)を残して焼失、現在の姿となる。

※細川勝元(1430〜1473) 室町中期の武将。足利八代将軍・義政に仕え、幕府の管領(かんれい)となる。将軍家の跡継ぎ争いで、(やま)()(そう)(ぜん)と対立、応仁の乱には東軍の総大将として戦い、勝敗が決する前に死亡。

■山門 洪水により破損したため、1755年に再建。

(きょう)(よう)() 塔頭(たっちゅう)大殊院(だいじゅいん)の前に広がる池。池泉舟遊(ちせんしゅうゆう)回遊式(かいゆうしき)の庭園で弁天島、伏虎島などを浮かべる。平安時代、徳大寺家の別荘であった頃、この池に龍頭の船を浮かべて歌舞音曲を楽しんだ。また、昔時は石庭よりも有名で、おしどりの名所、別名おしどり池とも呼ばれた。また、天気のいい日に亀が甲羅干ししている「水分石(みくまりいし)は池の水位を測るために置かれた石である。

■竜安寺垣 参道の竹垣は「竜安寺垣」と呼ばれる。特徴は透かしの部分に割竹を菱形に張っていることであり、菱形のデザインは柱やカーブにも対応しやすく、長い距離に適した竹垣。庭園の竹垣には寺院名を冠するものが多い

■勅使門(唐門)[重文] 1797年の火災で焼失後、西源院(せいげんいん)唐門(からもん)が移築。1975(昭和50)、英国エリザベス女王夫妻が参拝された際には、この門から入り、方丈から石庭をご覧になられた。
■庫裏 1797年の火災で焼失後に再建される。本来は「寺の台所」という意味を持った「庫裡」だが、禅宗寺院では「玄関」としている所が多い。

方丈(ほうじょう)[重文]  1797年、龍安寺の方丈が焼失したため、西源院(さいげんいん)の本堂(1606年建立)を移建したものと伝える。仏間には釈迦如来像、開山義天和尚。故皐月鶴翁(かくおう)1953(昭和28)から描いた龍と北朝鮮の金剛山の襖絵がある。

◆障壁画 明治初期の廃仏毀釈の影響により、1895(明治28)に寺から出て以来、115年ぶりの201010月に龍安寺方丈襖絵のうち6面が帰還した。東本願寺に売却後、伊藤傳右衛門など個人の手に渡るなどして散逸したもので、その一部は米国シアトル美術館などが所有している。2010年に戻った襖絵は、狩野派の作と言われる「群仙図」20面のうち4面と「琴棋書画図」20面のうち2面で、米国のオークションに出品されたもの。イギリス人の仲介により、龍安寺が落札した。他に所在の確認されているものは、米国メトロポリタン美術館所蔵の8面(襖4枚の表裏)、シアトル美術館所蔵の4面、イギリス個人所蔵の9面の計21面である。

◆方丈庭園[特名・特史] 石庭として世界的に有名。正しくは方丈庭園といい幅25m、奥行10m75坪の広さを持つ。※油土塀に囲まれた(かれ)山水(さんすい)(ひら)(にわ)で、「(とら)()(わた)しの庭」、「七五三の庭」とも呼ばれる。白砂に15個の石(七、五、三)を配した庭で15個の石を一度に見ることはできない。樹木を植えないのは砂庭を海洋に、岩石を島にかたどったからとも、あるいは細川勝元が男山八幡宮を遥拝(ようはい)するために植えさせなかったともいわれている。作庭は伝・相阿(そうあ)()といわれるが不明。石庭の裏に刻まれた「小太郎・口二郎」の刻印があるが謎。
 一見水平に見える石庭だが、東南角(方丈から見て左奥)に向かって低くすることで、排水を考慮した工夫が施されている。また、西側(方丈から見て右)にある塀は、手前から奥に向かって低くなるように作られている。奥行きを感じさせるため、土塀の高さを計算し遠近法を利用した高度な設計手法。

※虎の子渡しの庭 トラは三匹の子を産むと一子は(ひょう)で、母虎がいないと他の二子を食ってしまうとのこと。そこで川を渡る時は、まず彪を先に渡しておいて、次に一子を渡して彪を連れて帰り、次には彪を残して別の子を渡し、最後に再び渡す、という伝説である。窮地の創意工夫を意味している。

※油土塀 高さ1m80cmの油土塀。この油土塀とは、菜種油を混ぜ入れ練り合わせた土で作られ非常に堅牢な作りに仕上がっている。ちなみに石庭面は、外側の地面から80cmほど高い場所に位置する。強固さを保つための工夫という。

■仏殿 1981(昭和56)に建立。妙心寺に伝わる古絵図に基づいて、約200年ぶりに復元された。 材は樹齢1000~2000年の台湾桧を使用、入母屋造りで、銅版葺き屋根の重層な禅宗建築。 檀家の法要などに使用し、左側の祭壇には天皇家の位牌、右側には歴代住職の位牌が安置。

■西の庭(非公開)  1982(昭和57)、室町時代風に復元されたもの。 庭の中央辺りには細川廟があり、ここには、龍安寺を創建した細川勝元の木像が安置。 勝元像は1658(明暦4)年、藤原種久の手によって作られたもの。 また、細川家歴代の管領の位牌を祀る。

■茶室蔵六庵(非公開) 方丈の北東に位置する茶室。 江戸初期に建立された後、明治中頃と平成8年に2回移築された。蔵六とは亀の別名であり、頭・尾・四肢を甲羅に隠すことからこのように言われているが、 仏教的には蔵六は「六根を清浄におさめる」の意となる。四畳一間で中板が設けられている。

()(そく)(つくばい) 「吾唯足知(われただ足ることを知る」の四文字を図案化した(つくばい)()()(みつ)(くに)が「大日本史」の編纂(へんさん)にあたり、当寺の『太平記[重文]』を参考にしたのに対し、謝礼として寄進したと伝える。釈迦が説いた「知足(分に(やす)んじて(むさぼ)らない)の者は、たとえ貧しいといえども富めり。不知足の者は富めりといえども貧しい」という仏教の神髄。また、茶道の精神にも通じる

(わび)助椿(すけつばき) 朝鮮出兵のおり、「侘助」という人物が朝鮮から持ち帰ったと伝える。当寺の「侘助椿」は秀吉によって賞賛されたと伝えられており、日本最古とも言われている。3月上旬〜4月上旬に開花。千利休などの茶人たちに愛された。

大殊院(だいじゅいん) 龍安寺の塔頭で、真田(さなだ)幸村(ゆきむら)の墓がある。拝観はできない。

■パゴダ(仏塔・供養塔) 第二次大戦、派遣野戦自動車廠に参戦した龍安寺第58代松倉紹英住職等の発願によって尊い生命を捧げた亡き戦友達の慰霊の為に戦友一同の募金により昭和45年建立される。

■朱山七陵(陵墓群) 陵墓があるエリアは、麓の4つと山上の3つ。麓に後朱雀天皇・後冷泉天皇・後三条天皇の三天皇の陵墓と、後朱雀天皇の皇后である禎子(ていし)内親王の墓。そこからさらに、山道を経て一条・堀川天皇陵。さらに坂道を上っていくと、円融天皇火葬塚がある。

【龍安寺石庭の真実】

日本庭園を語る際には龍安寺を抜きで語れない。苔寺、天龍寺、金閣寺、銀閣寺、桂離宮、修学院離宮など、多くの庭を語っても日本庭園の半分を語っただけである。なぜならば、龍安寺は日本庭園の終着点であり、かつ出発点である。しかし、龍安寺に関する記述が少ないのは抽象庭園なので抽象論の美学を身につけた人々が、論議に参加していないからではないだろうか。また議論をしにくくしているもう一つの理由は、寺が焼失したため資料が少ないからである。現在論じられていることについて研修いたします。

石庭はあまりにも有名であるが、その誕生に関しては諸説ある。その一つとして七、五、三は分解することが出来ない数字で、めでたい数とされ、またこれにより森羅万象が生ずると信じていた。例えば魔方陣のように縦、横、斜とどの方向に三つの数を加えても和は十五になることから、数字に宇宙の神秘を見出していた。即ち陰陽五行説である。この龍安寺の庭は真珠庵のような完全な七五三からなっているのではなく、左から五、二、三、二、三からなっていて、またどこから見ても十四石しか見えないことから、益々なぞを深めている。

石の配置とは別に材質について考えてみると大変吟味がしてあることがわかる。赤い石、青い石、丸い石、細長い石、角張った石などからなっていて、無造作な15個の石ではないことがわかる。それぞれの特徴ある石群が高く、低く、手前に、奥にと組まれている。

この庭園を寺の名前から解釈する説がある。ずばり「龍が安まる」なので当寺の下段にある池(鯉の住処の潭にみたて)から鯉が階段(三級岩)を昇り龍になった様子をあらわしている。方丈前の白州には右側を龍の頭とし両手、両足はって蛇行している様を表している。確かの寺号は最も端的にその寺の由来を表すものである。では、龍のつく寺の庭について見てみると天龍寺(本坊)は亡くなった後醍醐天皇を弔らうためで、庭はまさに天に昇る様子を象徴化している。また大徳寺(龍源院)も雲海を龍が蛇行している。尚、現代の庭であるが東福寺(龍吟庵)は龍がとぐろを巻いている例がある。

寺の方丈に面した最も重要なところに、岩をポンポンと置いただけに見える庭は一体どのような人物が創らせたのであろうか。寺は細川勝元が徳大寺公有(きんあり)から譲り受けた。その後勝元の子の政元が母の三回忌のために方丈を建てた。このときに庭も創られたと言われている。さて、この庭は1797年に焼失しており、焼けた痕跡の残る壁の内側のレベルが外側より50cmほど高いことから「新たに整地し直した所に以前の石を掘り起こして作り直した」などの説がある。いずれにしてもこの空間は「庭園とは石の空間芸術」であるということをよく表している。

■大山平四郎著『龍安寺石庭 七つの謎を解く』淡交社・『日本庭園史新論』平凡社より抜粋 秋里籬島(あきざとりとう)著の『都林泉(みやこりんせん)名所図会(めいしょずえ)』に【当山に八景あり、是みな方丈よりの遠景を以て風色とす。(東山仏閣、八幡源廟、伏見城跡、淀川長流、東寺宝塔、花園暮鐘、雲山?松、隣院紅葉)】とあり、次のようなスケッチが描くことが出来るとされる。

【推定外観図】

【方丈から見た石庭の東側風景】歩廊には壁が無く東庭と土塀越しに東山連峰が見えた。左にある石組群は東山と対照的に厳格に造形した。

【方丈から見た石庭の西側風景】南西側の景色は仁和寺の五重の塔が見えたであろう、と推察している。

【推定復元図】石庭の奥行きは歩廊の東側にある東庭と同じ、玄関は土塀の位置に、歩廊に壁が無い、方丈は現在より一回り小さい、方丈の中心から総ての石組みが見渡せる、遠近法を駆使した石組み。

【現状平面図】方丈が焼失後大きな方丈が移設されたため、石庭の北側が1.5m迫り出した。玄関は方丈と共に移設されたため約5mも石庭に入り込んだため、壁が作られ東側の見通しが悪くなり、さらに石庭の東側は最大1m狭くなった。石庭東側が削られたため、西側も1m狭くした。

参考資料 庭園研究家 中田勝康氏HPより

京都検定HOME おすすめ観光コース 貸切料金表 お薦め食事処
こだわり観光コース 中井タクシーのブログ お薦めお休み処・お土産
紅葉観光コース 観光社寺一覧 タクシードライバーの研修会