京都観光タクシー同友会の観光案内
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901〜23年(延喜年間)※千観内供の開創と伝える。千観は空也上人の教えをうけ、常に不退念仏を唱え、世に念仏上人と呼ばれたので、寺名も念仏寺と称した。はじめ東山六原付近にあって、七堂伽藍をそなえた大寺であったが、中世以降衰微し、大正11年(1922)現在地に移る。愛宕の名を冠するのは、旧地の愛宕郷によるものか、あるいは隣接の愛宕寺(現珍皇寺)の寺名を継いだものとみられる。
■仁王門(江戸) 三間一戸、単層、切妻造、銅板葺の楼門で、江戸中期の再建であるが、古寺にふさわしい和様を主とした復古的な建物で仁王像(鎌倉)を安置。
■本堂[重文・鎌倉] 方五間、単層、入母屋造、本瓦葺の簡素な和様建築からなり、内部の天井は小組格天井、内陣折上げ格天井と須弥壇の格狭間には見事な鎌倉様式の曲線をとどめ、高山寺石水院にもおとらぬ建物。堂内には十一面観音立像(鎌倉)を本尊とし、右に吉祥天女像(平安)、左に千観内供像を安置し、左右の脇壇上には二十八部衆像を安置する。
■地蔵堂 火除地蔵と呼ばれる地蔵菩薩坐像(平安)を安置する。古来火難除けの信仰があり、今なお「火之要慎」の護符が授与される。
◆三宝の鐘 仏法僧の文字がそれぞれの鐘に刻まれており、その妙なる音律によって仏の心が世界に伝えられていくという。
◆ふれ愛観音堂 手で触れられることを喜んで下さる仏様。仏像は約2000年前から造られてきましたが、それを造った人たちは皆、目の見える人が造り、目で拝んできました。この像は歴史的に初めて、目の不自由な人たちに、仏との縁を結んでもらうために生まれた観音様。目の見える人も目の不自由な人も自由に触れて下さい。心の目と手で触れることで、私達の心身の痛みを癒して下さいます。
◆石塔 境内崖下にある二個の石塔のうち、右の名号笠塔婆(室町)は、清水寺の千日詣結願供養塔としてつくられたもので、1512年(永正9)の銘がある。左は地蔵菩薩像を陰刻した板石塔婆(室町)。他に石造宝篋印塔(江戸)や近年信徒有志による五百羅漢(現在1200羅漢)の石仏多数が安置され、深草石峰寺の石仏群におとらぬ壮観さをみせている。
◇西村公朝 愛宕念仏寺前住職。大正4年大阪府高槻市に生まれる。東京美術学校(東京芸術大学)彫刻科卒。昭和16(1941)年美術院国宝修理所に入り、昭和34〜50年まで同所所長を勤める。昭和42〜58年東京芸大保存修復技術研究主任教授。仏像彫刻家として仏像の研究や文化財の保存修復に勤める。三十三間堂千手観音像、広隆寺弥勒菩薩像など国宝級の仏像約1300体の修復に携わる。また比叡山戒壇院の本尊釈迦如来像ほかを製作。紫綬褒章賞、仏教伝導文化賞、勲三等瑞宝賞、東方文化賞受賞。昭和62年、天台大仏師法印という仏師最高の称号を授位される。平成15年12月2日遷化、享年89歳。
※千観内供 918〜983 平安時期の僧。現在の四条の西院から東山方面にかけて、昔は愛宕郡といった。奈良時代の末、聖武天皇の娘の称徳天皇がここに寺を建立。愛宕の地に建てられたので愛宕寺といった。ところが平安時代の初めに、鴨川の洪水で全て流れて廃寺となる。その復興を命じられたのが天台宗の僧・千観。千観はいつも念仏を唱えていたので、民衆から念仏聖人とよばれ、このことから寺名を愛宕念仏寺と呼ばれた。
千観の両親は、何とか子供がほしいということで、毎日清水寺に参拝していた。そして母親が、観音さんから蓮華の花を頂く夢を見て子供が授かる。両親は非常に喜んで、千手観音にあやかり千と観の二字をもらって千観丸と名付ける。
千観は早くから比叡山の僧侶となって苦行し、御所に出入りできる内供職となる。内供職というのは、御所の中のいろいろな行事ごとを司る役目。伝教大師や弘法大師も内供職。そのなかの一人に千観も選ばれたという。
ある日、千観は御所から帰る途中で、四条河原の土手で、民衆に法話をしているお坊さんの姿を見る。それは空也上人であった。それを見た千観は牛車から降りて僧のところへ行き、日ごろから悩んでいた“自分はこれからどのように生きていくべきか”ということをその僧に尋ねる。すると空也上人は「何事も身を捨ててこそ」と、ただ一言を言って去ってしまった。千観はそこで「はっ!」と悟って、その場で衣を脱いで供の者を寺に帰し、その足で裸一貫、修行のやり直しの旅へと出てしまう。ある年、雨がなかなか降らず干ばつが続く。これを心配した天皇が千観に祈祷をするようにと命を出し、御所の人たちが千観を探しまわった。その時、千観は、一人箕面の龍神滝で修行をしていた。この天皇のご意向を知った千観は、早速その場で祈祷を始め、そして見事に雨を降らせたという。
大衆の苦しむ姿を見ては、身を捨ててその救済にあたり、川では船頭となり、山崩れがあったというと馬方をやり、旅の人を安全に送り届ける等、奉仕活動に身を尽くした。また各地で神社やお寺を建てていき、最後は高槻の成合山の山頂に金龍寺という寺を建てて、そこで生涯を終えることとなる。
参考資料 昭和京都都名所図会 竹村俊則著より
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