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愛宕(おたぎ)念仏寺】《天台宗》075-865-1231

 901〜23年(延喜年間)千観内供(せんかんないぐ)の開創と伝える。千観は空也上人の教えをうけ、常に不退念仏を唱え、世に念仏上人と呼ばれたので、寺名も念仏寺と称した。はじめ東山六原付近にあって、七堂伽藍をそなえた大寺であったが、中世以降衰微し、大正11年(1922)現在地に移る。愛宕の名を冠するのは、旧地の愛宕郷によるものか、あるいは隣接の愛宕寺(現珍皇寺)の寺名を継いだものとみられる。

■仁王門(江戸) 三間一戸、単層、切妻造(きりづまづくり)、銅板葺の楼門で、江戸中期の再建であるが、古寺にふさわしい和様を主とした復古的な建物で仁王像(鎌倉)を安置。

■本堂[重文・鎌倉] 方五間、単層、入母屋造、本瓦葺の簡素な和様建築からなり、内部の天井は小組(ごう)天井(てんじょう)、内陣折上げ格天井と(しゅ)弥壇(みだん)の格狭間には見事な鎌倉様式の曲線をとどめ、高山寺石水院にもおとらぬ建物。堂内には十一面観音立像(鎌倉)を本尊とし、右に吉祥天女像(平安)、左に千観内供像を安置し、左右の脇壇上には二十八部衆像を安置する。

■地蔵堂 火除(ひよけ)地蔵と呼ばれる地蔵菩薩坐像(平安)を安置する。古来火難除けの信仰があり、今なお「火之要慎」の護符が授与される。

◆三宝の鐘 仏法僧の文字がそれぞれの鐘に刻まれており、その妙なる音律によって仏の心が世界に伝えられていくという。

ふれ愛観音堂 手で触れられることを喜んで下さる仏様。仏像は約2000年前から造られてきましたが、それを造った人たちは皆、目の見える人が造り、目で拝んできました。この像は歴史的に初めて、目の不自由な人たちに、仏との縁を結んでもらうために生まれた観音様。目の見える人も目の不自由な人も自由に触れて下さい。心の目と手で触れることで、私達の心身の痛みを癒して下さいます。

◆石塔 境内崖下にある二個の石塔のうち、右の名号笠塔婆(室町)は、清水寺の千日詣結願供養塔としてつくられたもので、1512年(永正9)の銘がある。左は地蔵菩薩像を陰刻した板石塔婆(室町)。他に石造宝篋印塔(江戸)や近年信徒有志による五百羅漢(現在1200羅漢)の石仏多数が安置され、深草石峰寺の石仏群におとらぬ壮観さをみせている。

◇西村公朝(こうちょう) 愛宕念仏寺前住職。大正4年大阪府高槻市に生まれる。東京美術学校(東京芸術大学)彫刻科卒。昭和16(1941)年美術院国宝修理所に入り、昭和34〜50年まで同所所長を勤める。昭和42〜58年東京芸大保存修復技術研究主任教授。仏像彫刻家として仏像の研究や文化財の保存修復に勤める。三十三間堂千手観音像、広隆寺弥勒菩薩像など国宝級の仏像約1300体の修復に携わる。また比叡山戒壇院の本尊釈迦如来像ほかを製作。紫綬褒章賞、仏教伝導文化賞、勲三等瑞宝賞、東方文化賞受賞。昭和62年、天台大仏師法印という仏師最高の称号を授位される平成15年12月2日遷化、享年89歳。

千観内供(せんかんないぐ) 918〜983 平安時期の僧。現在の四条の西院から東山方面にかけて、昔は愛宕郡といった。奈良時代の末、聖武(しょうむ)天皇の娘の称徳(しょうとく)天皇がここに寺を建立。愛宕の地に建てられたので愛宕寺といった。ところが平安時代の初めに、鴨川の洪水で全て流れて廃寺となる。その復興を命じられたのが天台宗の僧・千観。千観はいつも念仏を唱えていたので、民衆から念仏聖人とよばれ、このことから寺名を愛宕念仏寺と呼ばれた。

 千観の両親は、何とか子供がほしいということで、毎日清水寺に参拝していた。そして母親が、観音さんから蓮華の花を頂く夢を見て子供が授かる。両親は非常に喜んで、千手観音にあやかり千と観の二字をもらって千観丸と名付ける。

 千観は早くから比叡山の僧侶となって苦行し、御所に出入りできる内供(ないぐ)職となる。内供職というのは、御所の中のいろいろな行事ごとを司る役目。伝教大師や弘法大師も内供職。そのなかの一人に千観も選ばれたという。

 ある日、千観は御所から帰る途中で、四条河原の土手で、民衆に法話をしているお坊さんの姿を見る。それは空也(くうや)上人(しょうにん)であった。それを見た千観は牛車(ぎっしゃ)から降りて僧のところへ行き、日ごろから悩んでいた“自分はこれからどのように生きていくべきか”ということをその僧に尋ねる。すると空也上人は「何事も身を捨ててこそ」と、ただ一言を言って去ってしまった。千観はそこで「はっ!」と悟って、その場で衣を脱いで供の者を寺に帰し、その足で裸一貫、修行のやり直しの旅へと出てしまう。ある年、雨がなかなか降らず干ばつが続く。これを心配した天皇が千観に祈祷をするようにと命を出し、御所の人たちが千観を探しまわった。その時、千観は、一人箕面の龍神滝で修行をしていた。この天皇のご意向を知った千観は、早速その場で祈祷を始め、そして見事に雨を降らせたという。

 大衆の苦しむ姿を見ては、身を捨ててその救済にあたり、川では船頭となり、山崩れがあったというと馬方をやり、旅の人を安全に送り届ける等、奉仕活動に身を尽くした。また各地で神社やお寺を建てていき、最後は高槻の成合山の山頂に金龍寺という寺を建てて、そこで生涯を終えることとなる。

参考資料 昭和京都都名所図会 竹村俊則著より

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