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仁和寺のおむろ桜 2010年4月

【仁和寺】《真言宗御室派総本山》075-461-1155

 886年(仁和(にんな)2)、第58代光孝(こうこう)天皇の勅願(ちょくがん)により創建、888年(仁和4)に完成。年号を寺名とした。宇多(うだ)天皇が落髪(らくはつ)入寺(にゅうじ)し寺内に御室(おむろ)(御座所(ござしょ))を設け、御室御所と呼ばれた。以後、明治まで代々(ほう)親王(しんのう)門跡(もんぜき)となり門跡寺院の筆頭(ひっとう)にあった。平安時代の中期から鎌倉時代にかけて皇室の尊崇と貴族の庇護を受けたが、応仁の乱(1467〜77)によって焼失。1634年(寛永11)徳川幕府3代将軍家光により再興される。しかし、明治20年の火災により多くが焼失、大正2年に再建される。年号の寺名は、仁和寺の他、延暦寺・建仁寺以外に使用できない。仁和寺は平成6年(1994)に古都京都の文化財の1つとしてユネスコの「世界遺産」に登録された。

二王門 金堂 五重塔
おむろ桜 鐘楼 御影堂

御室(おむろ) 宇多法皇が仁和寺内に営んだ御室(御座所)にちなんだ地名。御室とは、高貴な方の住むにふさわしい設備をそなえた僧坊という意味。立石電機・オムロンは、御室の地名にちなむ。

霊宝殿 毎年2回名宝展を開催。彫刻・絵画・古文書(こもんじょ)・工芸品など寺宝(国宝・重文)を多数収納する。

■二王門(におうもん)[重文] 徳川家光の寄進の楼門。江戸時代初期の寛永年間(1637〜44)にかけての建築。二王門の名称の由来は、この門に寺域全体の守護尊である二王像を収めるところにあり、一般的に「山門」とも「南大門」とも呼ばれている。知恩院の「三門」や南禅寺の「山門」と共に、京都の三大門(他にも説がある)と呼ばれる。ただ、知恩院や南禅寺の門が禅宗様式、すなわち唐様であるのに対し、仁和寺の二王門は和様という。

中門[重文] 江戸初期の再興の時に新築されたもの。二天王像を安置。

おむろ桜[名勝] 起源は古く平安時代の昔にさかのぼる。境内の桜が公家達の目を楽しませたと伝えられているが、応仁の乱で荒廃。寛永年間3代将軍家光の仁和寺再興の折、往事にちなんで境内の一隅に桜を植樹したのが現在の桜。この桜は仁和寺法親王から毎年禁裡(きんり)に献上されたと伝えられ、元禄時代に入って一般人々の要望から解放されるようになった。御室桜の特徴は背が低いところであり、これは土質によるもの。また現在品種は有明など10数種を数え約200株、遅咲きの里桜で大正13年に天然記念物法により名勝に指定。“わたしゃお多福御室のさくら 花(鼻)は低いが人が好く"と詠われる。

五重塔[重文] 1644年(寛永21)に創建。高さ36mで、各層の屋根の大きさがあまり違わないという、近世の五重塔の様式をよく伝えるもの。東寺の五重塔と同じく、寛永期を代表する建築。

金堂[国宝] 本堂を仁和寺では金堂と呼び、桃山時代に建てられた京都御所の紫宸殿(ししんでん)を移築したもの。平安時代の建築様式である「寝殿造」の様式を残すものとして、我が国の建築史上きわめて重要な位置を占める。御所から仁和寺に移築された時の変更は少なく、特に目立つものとしては屋根が桧皮葺(ひわだぶき)から本瓦葺(ほんかわらぶき)になったこと、仏堂にするため内部に(しゅ)弥壇(みだん)を設けたこと。内陣に本尊・阿弥陀三尊像、左右に光孝天皇、徳川家光像を安置する。背後には極楽図、柱には極色彩が描かれる。

経蔵(きょうぞう)[重文] 寛永期の造営。回転式の輪蔵(りんぞう)に、多数の経巻を納める。

御影堂[重文] 江戸初期、仁和寺再興に当たって京都御所より下賜(かし)された清涼(せいりょう)殿(でん)の古材を用いて建立したといわれる。内部は宗祖・弘法大師像を安置する。また、御影堂の前にある御影堂中門も、独立して[重文]に指定されている。

観音堂[重文] 江戸初期に新築。近世の堂宇建築の特徴とされる「建ちの高さ」が目立つ。堂内には十一面観世音菩薩ほかの二十八部衆などが祀られる。仁和寺に伝わる法流の伝授など、密教儀式の伝承や修行道場として使用される。

鐘楼[重文] 江戸初期に新築。周囲全部を板で囲ったようなこの鐘楼は「(はかま)(ごし)式」といわれる規模の大きな本格的なもの。

菅公腰掛石 観音堂 勅使門
寝殿庭園1 寝殿庭園2 霊明殿

(かん)(こう)腰掛(こしかけ)(いし) 菅原道真が太宰府左遷のおり、宇多法皇に愁訴するため御室をたずね、勤行中であった法皇をこの石に腰掛けて待ったという。

勅使門(ちょくしもん) 鳳凰、牡丹唐草、宝相華唐草文様など細かな意匠が欄間などに施されている。古典的なモチーフと近代的な幾何文様が混在した透かしは見事。

御殿 江戸時代初期に宸殿として京都御所の常御殿を賜ったが明治20年、火災により焼失。明治から大正のはじめにかけて再建された御所風の建築。勅使門・玄関・白書院・宸殿・霊明殿・黒書院などからなる。

白書院 門跡が非公式に客と逢うところ。本来白木の柱を用いたところからこの呼び名がある。三室の襖絵はすべて松を画題としており、これは昭和12年に福永晴帆画伯によりかかれたもの。白書院の東側、寝殿の南側にある南庭には、左近の桜・右近の(たちばな)が植えられ、その前方に白砂と一部に杉木立や松を配した簡素な庭が広がり御殿の雰囲気をよく盛り上げている。

宸殿 日本古来の寝殿造(しんでんづくり)書院造(しょいんづくり)を基本とした建築。御室御所址を代表する建物。本来は門跡の御座所であり儀式や式典に使用。細部の意匠にいたるまで配慮が行きとどき気品にあふれている本格的な書院造。

宸殿庭園 明治、大正期に活躍した造園家・小川治兵衛の作庭。中央に心字池をうち、滝を設け樹木の生い茂る築山には茶席・飛濤亭がのぞかれ彼方には五重塔が見える。

(れい)(めい)殿(でん) 御殿内部にある唯一の仏堂。本尊薬師如来像と歴代門跡の尊牌を安置する。正面の「霊明殿」の額は近衛(このえ)(ふみ)麿(まろ)の絶筆といわれている。

■黒書院 門跡が公式に客と逢うところ。黒書院は白書院に対して柱や天井障子の(ふち)などを漆黒で塗りあるいは色づけするのが本来の意味。元々旧安井門跡の宸殿(しんでん)を移築改造したもので、内部には堂本印象画伯が描いた襖絵があり、柳、松、秋草、竹葵の各間がある。宸殿と黒書院の間にある庭を坪庭と言い、藤が植えてあれば藤坪、竹が植えてあれば竹坪という。

茶室・(りょう)郭亭(かくてい)[重文] 江戸時代の画家・尾形(おがた)光琳(こうりん)の屋敷から移したといわれている。葺下し屋根の下に袖壁を付け、その中ににじり口を開いているのが珍しい。

茶室・()(とう)(てい)[重文] 江戸時代末期、119代光格天皇の好みで建てられた草庵風の茶席。内部は明るく変化のある天井と洞床及び貴人口などに特徴がある。

御室八十八ヶ所 文政10年(1827)当時は四国への巡拝が困難であったため、時の仁和寺第29世門跡・済仁法親王の本願により、弘法大師ゆかりの四国八十八ヶ所霊場を寺侍(久富遠江守)が巡拝し、各霊場のお砂をお持ち帰り、各お堂に埋めたのがはじまり。順路にそってお堂が点在し、それぞれの御本尊と弘法大師像をお祀りしている。この御室88カ所霊場は約3q、2時間程度で巡拝。

終戦秘話 昭和20年1月、近衛(このえ)(ふみ)麿(まろ)が仁和寺に突然立ち寄り、当時の門跡と密談。日本が無条件降伏の場合、連合軍より天皇の戦争責任の追求をかわすため、陛下を仁和寺にお迎えし、落飾(らくしょく)を願うというもの。仁和寺ではひそかに陛下をお迎えする準備がすすめられたが、実現はしなかった。

参考資料 昭和京都都名所図会 竹村俊則著より

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