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【二条城(元離宮二条城)】075-841-0096

 1603年(慶長3)、徳川家康が築城。総面積275,000u、約8万3千坪。周囲は約1,800m。3代家光の上洛に際し、伏見城の遺構を移すなどして1626年に完成。後水尾(ごみずのお)天皇をここに迎えて盛大な(えん)(もよお)した。家光以降は幕末になって14代家茂が入城、1867年(慶応3)、15代徳川慶喜(よしのぶ)大政奉還(たいせいほうかん)の上表がここで行われ、徳川幕府終幕の舞台となる。明治17年宮内庁の所管となり、二条離宮と改称。昭和14年には京都市の所管となり、再び二条城と復称する。

唐門 二の丸御殿 二の丸庭園冠木門
二の丸庭園 本丸御殿 二条城の桜

東大手門[重文]  二条城の正門。寛文2(1662)の造営。現在の形式は櫓門で石垣と石垣の間に渡櫓を渡して,その下を門とした形式になっている。造営直後の門は単層で、高麗門だったよう。

■番所 徳川将軍不在の二条城は二条在番と呼ばれる,江戸から派遣された武士によって警備されていた。毎年2(150)4月に交代して番にあたった。現在,門番所の遺構は少なく,貴重な建物。

唐門[重文] 寛永3(1626)、後水尾天皇の行幸により二条城が使われることになり 大規模な改造を断行。唐門はこのときに造営されたものと推定。(ひさし)の上に雲竜(うんりゅう)竹虎(ちっこ)・牡丹唐獅子などの豪華な彫刻。豪華な唐破風は極楽への入口。温泉の入口、遊郭の入口、霊柩車に唐破風は欠かせない!

◇唐門外側唐破風装飾 唐破風の上段は蝶、欄間部分は松竹梅に鶴亀、 まさに長寿を寿ぐ象徴。蟇股の亀は、蓑亀の姿に小さいながらも山を載せ、 松と何らかの植物を飾る。蓬莱山か?

◇門内欄間の龍虎 龍虎合間見える姿を表現したものか。武家らしい装飾といえるが、境界守護の意味のようだ。

◇唐門内側唐破風装飾 上段の蝶は外側と同じ。蝶の文様は比較的早く用いられ、有職文様では蝶を用いた優雅なものが多い。家紋でも種類は豊富で、俗説ではあるが平家が揚羽蝶を用いたという。欄間部分の瑞鳥の種類は不明。蟇股に黄安仙人(亀乗り仙人)がいる。中国前漢の武帝時代(156~87)の仙人で、大きさ3尺の亀に乗っており、その亀は3000年に1回首を出したという。 黄安は5回出したのを見たといい、単純に計算すると15000歳ということになる。 ある日、漢の武帝に呼ばれ、仙人の話などをしていたが、武帝が亡くなって以降は 人知れずどこかへ消えたという。

二の丸御殿[国宝] 書院造の各間がそれぞれ独立した建物となっている大書院形式の代表的建物。遠侍・式台・大広間・蘇鉄の間・黒書院・白書院の6棟からなる。建坪1,000坪、部屋数33室、畳は800畳。

車寄 欄間彫刻は表と裏のデザインを変えており,表側には5羽の鸞鳥(らんちょう)吐綬鶏(とじゅけい)?・松・牡丹,上部には雲,下部には笹。屋根は桧皮葺になっており,床は牛車で中に入れるように四半敷になっています。

鴬張りの廊下 侵入者の発見方法の一つとして考案といわれているが、実は着物の裾が釘の頭にひっかからないように釘頭が床面に出ない廊下を設計した。構造上の問題から結果として音が出るようになったという説がある。なめらかな床のつくりがこの廊下の特徴。

遠侍の間 城中最大の建物、約1046.1u。一の間は76畳ある。諸大名や外来客の控え所。虎と豹の絵は、毛皮を見て描いた想像画。虎に竹はつきもので、虎は勇敢、竹は正直を表すという。ちなみに、酔っ払いが虎になるというのは、『酒』を古来、『ササ』と言っていたようで、ササ()には虎がつきものからといわれている。来客に酒をすすめる時は『ササどうぞ』となる?

式台の間 式台は挨拶を意味する『色代』の語からの転化。参上した大名が老中職と挨拶を交わした所。障壁画の松は狩野探幽(かのうたんゆう)25歳の作と伝える。ここから大広間にかけては、長押上(なげしじょう)小壁(こかべ)まで一連の大画面とした障壁画。

大広間 一の間は広さ48畳,二の間は44畳。将軍と諸大名の対面所。武家風書院造の代表。上段には座敷飾(ざしきかざり)(床の間・付書院(つけしょいん)違棚(ちがいだな)帳台構(ちょうだいがまえ))を設け、天井は二重折上格天井(おりあげごうてんじょう)で将軍着座の場を示す象徴。帳台構は武者隠(むしゃかく)しの間とも呼ばれ、護衛の侍が控えていたという。障壁画には錦鶏鳥(きんけいちょう)が描かれ、違棚の小襖(こぶすま)の裏面にまで絵が描かれている。1867(慶応3)10月、この部屋で15代将軍慶喜が諸大名を集め大政奉還を発表し、徳川265年の幕を閉じた。

黒書院 将軍家に近い関係にある親藩大名などとの内向きの対面所。上段の間には座敷飾を完備するが、違棚が二か所あるのが珍しい。襖絵は探幽の弟,尚信の作品。

白書院(御座(ござ)の間) 将軍の居間と寝室。上段の間には蚊帳(かや)をつる金具があったといい、下段との境に襖を立てた。山水画は中国・西湖(せいこ)の雪景色で狩野興以(かのうこうい)筆。

蘇鉄の間 将軍が大広間に出座する前に控える室内で以前は畳敷。

大広間四の間 将軍上洛の時、武器を収めた部屋と伝える。障壁画は狩野探幽筆。三の間との間の一枚板の丸彫(まるぼり)彫刻の欄間は厚さ35cm

老中の間 老中が執務をした部屋で、長押上は白壁で質素。

勅使の間 将軍が朝廷から使者を迎える時の部屋。上段に勅使が座り,将軍は下段に座る。障壁画は(かえで)(ひのき)が描かれている。伝・狩野甚之丞(じんのじょう)筆。

二の丸庭園[特名] 池泉回遊式庭園。家康の頃の作庭であるが、後水尾天皇行幸(ぎょうこう)の際、小堀遠州が改造。池の中に蓬莱島・鶴島・亀島。池の南、芝生の辺りには行幸(みゆき)御殿があって、大広間と二方からの眺めを配慮してあるところから、『八陣(はちじん)の庭(中国古代の軍師諸葛孔(しょかつこう)(めい)の考案した八陣に因む)』とも呼ばれる。行幸御殿は天皇行幸が終わると取り払われ仙洞御所へと移築された。
 庭園の中心を担う池には蓬莱島という名の中島が浮かんでおり、その南側には鶴島が、北側には亀島が配されている。これらは大陸より伝わった神仙蓬莱思想を表したもので、池を海、島を仙人の住む蓬莱山と見立てることで永遠なる繁栄の願いを表している。鶴島と亀島は、その名の通り鶴と亀をそれぞれ模した島であり、鶴島には羽を表す三角形の羽石と鶴の首を表する鶴首石が、また亀島には亀の頭を表す亀頭石が据えられている。蓬莱島の石組みは特に複雑であり、鶴島と共に見えるアングルでは亀の姿に見え、亀島と共に見えるアングルでは鶴の姿に見えるよう組み上げられており、どの方向から見ても常に鶴と亀が対を成すよう工夫されている。
 なお、現在庭園の西側には多種多様な木々が茂り、庭園を縁取っているが、作庭当時にはこれらの木々は無く、大広間から天守を見る事ができたという。庭園の北東には巨大な蘇鉄が植えられている。南方系の植物である蘇鉄は当時珍しく、富と権力の象徴として時の権力者に好まれた。二条城のものは、肥前佐賀藩の初代藩主である鍋島勝重が後水尾天皇の行幸に際し蘇鉄を一本献上したという記録が残っており、また江戸時代中期にあたる第八代将軍徳川吉宗の時代にも15本の蘇鉄が存在した事が絵図より確認できる。現存するものが当時のものかは不明。

本丸御殿[重文] 本丸は秀忠・家光の造営。五層天守閣は落雷(1750)で、本丸御殿は天明の大火(1788)で焼失。その後永らく本丸御殿の再建はならず,幕末に15代将軍慶喜の住居として,本丸御殿が建てられたが,明治14年に撤去。現在の本丸御殿は、明治26年に京都御所内にあった桂宮家の御殿を移築。京都御所にあった当時,仁孝天皇の皇女和宮が14代将軍家茂に嫁がれる前,約18ヶ月にわたって住んだ建物で,嘉永7(1854)内裏が炎上したときにも延焼を免れ,孝明天皇の仮皇居に使用された由緒深い建物。宮家の遺構として完全な形で残されている唯一のもの。

■台所 寛永期の建築。入口は長方形の大きなケヤキの柱が立ち,両開きの扉と内開きのくぐり戸で構成。内部は広い土間と板敷の広間,御膳所や料理の間などの部屋で構成されており,この板敷の広間では,まな板を置いて調理を行い,御膳所などで盛り付けが行われていた。

■障壁画[重文] 国宝二の丸御殿には3000面以上の障壁画が遺され,そのうちの1016面が,昭和57年に国の重要文化財に指定。これらの障壁画は,築城当初に描かれたものではなく,寛永3(1626)の後水尾天皇の行幸のために二条城が大改築された際に,幕府御用絵師であった「狩野探幽」をリーダーとする狩野派によって制作された。

清流園 昭和40(1965)に造園家小川治兵衛により清流園が造営。この庭園は河原町二条にあった旧角倉了以の屋敷の一部,庭石800個,庭木等を無償で譲りうけ,更に全国から集めた銘石300個,篤志家より寄贈を受けたものなどを利用。庭園は当時の高山義三市長によって「清流園」と命名され,東半分が芝生を敷き詰めた洋風庭園,西半分は二棟の建物を含めた池泉回遊式山水園からなる和洋折衷庭園。

■収蔵館 昭和57年に重要文化財指定を受けた二の丸御殿障壁画の原画を恒久的に保存するため、二条城築城400年を記念して、平成163月に竣工し、平成171010日に開館。二の丸御殿障壁画、それに関する資料や飾金具、城内から発掘された埋蔵文化財も展示する。

二条城の植栽

【松】           松明に利用、また、常緑の松は永遠の生命象徴
(かし)(しい)・梅】      実を食料に利用
(くす)銀杏(いちょう)(けやき)(むく)(えのき)燃料に利用
【ナギノ木】       鎧の中に葉を入れて戦えば死なないという
【椿】           二代将軍秀忠がことのほか愛好
枝下(しだれ)エンジュ】    枝が竜の爪に似ていることから、縁起がよいとされる
【タチバナモドキ】   二条城の外堀を巡る。

【大広間の大名配置】

 1867(慶応3)10月、二条城に40藩の重役が参集し、大政奉還の会議がなされた。二の丸御殿大広間は徳川15代将軍慶喜が大政奉還を発表したといわれる場所。現在の人形の配置は慶応年間の資料に基づくものといわれている。

一の間

二の間

@有馬

A池田

B細川

C浅野

D黒田

有馬巴

備前蝶

細川九曜

浅野鷹羽

黒田藤

E上杉

F蜂須賀

G藤堂

H南部

I前田

竹丸に二羽雀

左卍

藤堂蔦

南部鶴

大聖寺梅鉢

 

参考資料 昭和京都都名所図会 竹村俊則著より

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