京都観光タクシー同友会の観光案内
【曼殊院】《天台宗門跡寺院》075-781-5010
曼殊院の紅葉 2010年11月
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竹ノ内門跡とも呼ばれる天台宗五門跡の一つ。もと比叡山西塔あり、東尾坊とよばれていたが、点々とところを変え、明暦2年(1656)、現在地に桂離宮を造営した八条宮智仁親王の次男、良尚法親王が再建、造営した。
勅使門 | 庫裏入口 | 梅林 |
大書院からの松 | 大書院からの紅葉1 | 大書院からの紅葉2 |
■勅使門 1656年頃の造営。曼殊院の正門で薬医門。薬医門は本柱が前後の中央より前にあり、後方に控柱をつけているのが特徴。近世以後、城や武家の邸宅に用いられた。
■大玄関 岸駒筆「孔雀図」、狩野永徳筆「竹虎図」の襖絵。かつて「孔雀の間」には幽霊の掛軸があったが滋賀県のお寺にお返しになったという。
■大書院(本堂)[重文] 慈恵大師坐像[重文]等を安置。慈恵大師は元三大師とも呼ばれ、正月三日に亡くなったことからこの名があり、おみくじの元祖。欄間には月形・卍崩、廊下の杉戸の引手は経巻・扇子・瓢箪・矢などの金具を用いる。桂離宮と共通したところがあって数寄屋風。ちなみに、卍は吉祥を表し、卍崩しは、その連続、永遠に栄えるという意味。
■小書院(閑静亭)[重文] 廊下部分の屋根が延びて縁を覆い、室内の屋根が別で、二重屋根。日のさす角度が考えられている。違棚は約十種の寄木で造られた曼殊院棚。欄間は表菊と裏菊のみだれ菊、長押の釘隠しは、七宝入り絵変りの富士。公家趣味のあふれた繊細な工夫。小書院はまるで屋形船。この煩悩の多い娑婆の世界から彼岸に航海して渡るという。
◆庭園[名勝] 鶴亀の2島を配し、白川の白砂をもって水の流れを象徴する典型的枯山水庭園。小堀遠州作といわれるが、作庭は遠州没の後。鶴島の松は樹齢400年と伝える五葉松。他に曼殊院形灯籠(キリシタン灯籠)と梟の手水鉢は名品。大書院から小書院の廊下の欄干は、高さを変化さした遠近法。
◆八窓軒茶室[重文] 小堀遠州好み3畳台目の茶室。
◆宿直の間 護衛の者の部屋。法親王に何かあったときはここで切腹するという。床の間に対して、竿縁天井が直角に交わるのは、「切腹の間」を表すという。床の間には国宝・絹本著色不動明王像(黄不動)の模写。
◆不動明王像(黄不動)[国宝] 日本三不動の一つ、三井寺の黄不動の模写。現物は博物館に預託。
■庫裡[重文] 扁額「媚竈」は良尚法親王の筆。「その奥に媚(こ)びんよりは、むしろ竈(かまど)に媚びよ」という意味で、働く人々を大切にして出入りするようにという意味。庫裡にいたる廊下には皇族の写真が掲げてある。
◇桂離宮と曼殊院 曼殊院門跡・良尚法親王は、桂離宮造営した智仁親王の次男、智忠親王の弟であり、曼殊院は桂離宮の書院群と類似しているため、「小さな桂離宮」ともいわれている。
◇八条宮家の創立と秀吉、家康 桂離宮の創始者・八条宮智仁親王は、後陽成天皇(第107代)の弟に当たり、後陽成天皇の皇子の後水尾天皇の叔父にあたる。天正16年(1588)10歳のとき、関白・豊臣秀吉の養子として迎えられたが、翌年、秀吉に実子鶴松が生まれたので、天正18年(1590)新たに3,000石の八条宮を創立した。大阪夏の陣で徳川家康が豊臣家を滅ぼし、以来江戸時代になる1615年、この動乱の真ただ中に幕府から八条宮に領地として桂の地が与えられ、桂離宮は皇族と権力者秀吉、家康という関係の中で産声を上げることとなる。
参考資料 昭和京都都名所図会 竹村俊則著より
曼殊院のキリシマツツジ