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【高山寺】《真言宗単立寺院》075-861-4204

高山寺参道 高山寺参道 高山寺参道
石水院入口 石水院南縁 笠塔婆
廂の間 栂の木 栂尾茶園
明恵上人樹上座禅像[国宝] 鳥獣人物戯画[国宝 金堂(こんどう)

 

 774(宝亀5)の開創。のち鎌倉時代1206(建永元)※明恵(みょうえ)上人が後鳥羽上皇の帰依を得て華厳宗興隆の根本道場として再建。後鳥羽上皇より、「日出先照高山之寺」の勅額を賜ったことから、高山寺と改めた。南北朝時代には広大な寺となったが、応仁の乱で諸堂の多くを焼失し、寺運は衰微する。しかし、国宝・鳥獣人物戯画4巻など、洛西における文化財の宝庫。1994(平成6)「世界文化遺産」に登録。

※明恵上人(11731232) 鎌倉初期の華厳宗の僧。紀伊生まれ。高雄神護寺で文覚に師事。東大寺で受戒、華厳を学ぶ。後鳥羽院から栂尾(とがのお)の地を賜り、高山寺を建立。旧仏教の復興に尽力し、専修念仏を非難する。

■表参道 参道石段上の左手に「栂尾山 高山寺」の石碑(富岡鉄斎筆)がある。

■石水院[国宝] 後鳥羽上皇の賀茂の別院を賜ったものと伝え、明恵上人の住房となったという。五所堂とも呼ばれる。鎌倉初期の寝殿造りの面影を残す、すぐれた住宅建築で貴重な遺稿。創建当時、現石水院は東経蔵として金堂の東にあった。1228(安貞2)の洪水で、東経蔵の谷向いにあったもとの石水院は亡ぶ。その後、東経蔵が春日・住吉明神をまつり、石水院の名を継いで、中心的堂宇となる。1889(明治22)に現在地へ移築され、名をかえ、役割をかえ、場所をかえて残る。明恵上人時代の唯一の遺構。

◆栂の木 石水院山門を入ると右手に栂(つが)の大木がある。別名をトガというが、これは、かつて咎人をはりつけるのに使ったためとの説がある。

◆廂の間 石水院の西正面。かつて春日・住吉明神の拝殿であったところで、正面には神殿構の板扉が残る。欄間に富岡鉄斎筆「石水院」の横額がかかる。鉄斎は明治期の住職土宜法龍と親交があり、最晩年を高山寺に遊んだ。落板敷の中央に、今は小さな善財童子(ぜんざいどうじ)像が置かれている。華厳経(けごんきょう)にその求法の旅が語られる善財童子を明恵は敬愛し、住房には善財五十五善知識の絵を掛け、善財童子の木像を置いたという。

◆南縁 南面の欄間には伝後鳥羽上皇の勅額「日出先照高山之寺(ひいでてまずてらすこうざんのてら)」がかかり、寺号の由来を語る。西面には長く高山寺の中心的子院であった十無盡院(じゅうむじんいん)の額

◆「日出先照高山之寺」額 高山寺は古く「神護寺別院」「神護寺十無盡院」などと呼ばれ、栂尾の地にあった神護寺の別院であった。1206(建永元)後鳥羽院の院宣により、華厳興隆の勝地として明恵が栂尾の地を賜ったのが高山寺の起りである。その際に下賜された後鳥羽院宸翰の勅額といわれる。背面に陰刻で「建永元年」「藤原長房」(後鳥羽院の近臣、後の慈心房覚真)とあり、長房が院と明恵との仲立ちをつとめたらしい。「日出先照高山」という表現は華厳経の比喩に由来し、字句は華厳経の注釈書(明恵が重視した『華厳経探玄記』)に見える。

◆鳥獣人物戯画[国宝] 鳥羽僧正覚猷(かくゆう)(1053~1140)といわれるが、確証はなく、作者未詳である。教科書で一度は見たことのある動物で描かれた風刺画で、あまりにも有名。甲乙丙丁4巻からなる。甲巻は擬人化された動物を描き、乙巻は実在・空想上を合わせた動物図譜となっている。丙巻は前半が人間風俗画、後半が動物戯画、丁巻は勝負事を中心に人物を描く。甲巻が白眉とされ、動物たちの遊戯を躍動感あふれる筆致で描く。甲乙巻が平安時代後期の成立、丙丁巻は鎌倉時代の制作と考えられる。現物は博物館に寄託。

◆明恵上人樹上座禅像[国宝] 鎌倉時代初期の作。高山寺の後山、楞伽山(りょうがせん)には、上人坐禅の遺跡・華宮殿(けきゅうでん)縄床樹(じょうしょうじゅ)などが今も残る。華宮殿の西に二股に分かれた一株の松があった。縄床樹と名付け、常々そこで坐禅入観したという。図上の賛によれば、この絵は縄床樹に座る明恵を描いたものである。

◆木彫りの狗児(くじ)[重文] 幼い日々、亡き父母を慕う明恵は、小動物を見てはその生まれ変わりかもしれないと思い、子犬をまたいでしまった後に立ち返って拝んだという逸話が残る。また後年、夢に「子犬」が現れることもあった。それらと重なり合うような、愛らしい実寸大の子犬の木彫りである。伝快慶作。明恵が座右に置いて愛玩した遺愛の犬と伝える。志賀直哉は「時々撫で擦りたいような気持のする彫刻」と記している。

◆笠塔婆[重要美術品] 塔身・笠から宝珠までを一石でつくった笠塔婆で、明恵上人の練行場の一つであることを表示している。

■栂尾茶園 「日本最古之茶園」碑が立つ。鎌倉初期、栄西禅師が宋から持ち帰った茶の実を明恵につたえ、山内で植え育てたところ、修行の妨げとなる眠りを覚ます効果があるので衆僧にすすめたという。最古の茶園は清滝川の対岸、深瀬(ふかいぜ)三本木にあった。現在の茶園は、もと高山寺の中心的僧房十無盡院(じゅうむじんいん)があった場所と考えられている。宇治の茶は栂尾から移植したものという。中世以来、栂尾の茶を本茶、それ以外を非茶と呼ぶ。

■茶室遺香庵 明恵上人700年遠忌に際し、当時の住職土宜覚了は境内の整備に力を尽した。その一環として、1931(昭和6)に建立された。

■収蔵庫(法皷台文庫) コンクリート3階建ての収蔵庫。博物館寄託(きたく)の仏像・絵画等の美術品を除く、聖教(しょうぎょう)・典籍・古文書類のほぼ全てを収める。1968(昭和43)に高山寺典籍文書綜合調査団が発足し、全点の調査が行われた。その成果が『高山寺典籍文書目録』である。それを受け、1981(昭和56)には、先に指定された1000余点に加え、全体が一括で重要文化財の指定を受けた。目録に載る典籍は総数12000点。平安後期、鎌倉時代の典籍を多く含み、明恵の教学活動を反映している。(国宝7件、重文千件以上)

◆他の寺宝・国宝 玉篇(ぎょくへん)巻第二十七・冥報記(めいほうき)篆隷(てんれい)万象(ばんしょう)名義(めいぎ)仏眼仏母(ぶつげんぶつも)像・華厳宗(けごんしゅう)祖師(そし)絵伝(えでん)がある。

■開山堂 明恵上人晩年の草庵址。明恵(1173~1232)が晩年を過ごし、入寂した禅堂院の跡地に立つ。明恵上人坐像が安置され、御影堂信仰の対象となった。建物は室町時代に兵火をうけて焼亡し、江戸時代に再建されたもの。

■明恵上人御廟 覆屋の中に古い五輪塔を収める。左端が宝篋印塔[重文]、その右が如法経塔[重文]。廟近くには歴代住持たる土宜法龍、土宜覚了、小川義章、葉上照澄の墓がある。

金堂(こんどう) 1634(寛永11)、御室仁和寺の古御堂の建物を移築したといわれ、屋根は銅板葺で、正面に一間の向拝を付し、蔀戸を設け、側面は舞良戸・板扉等からなっている。内部は内外陣に分け、外陣天井は格天井、内陣天井は小組格天井とし、本尊・釈迦如来像を安置する。

■仏足石 江戸後半の再造。仏足石は釈迦の足跡を印した石をいい、インドでは仏像が造られる以前には、釈迦の象徴として崇拝の対象とされていた。千輻輪宝(せんぷくりんぽう)金剛杵(こんごうしょう)双魚紋(そうぎょうもん)などの紋様をもつ。

 

参考資料 昭和京都都名所図会 竹村俊則著より

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