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【光明寺】《西山浄土宗総本山》075-955-0002

光明寺の紅葉 2010年11月

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  1175年法然上人が43歳の時、日本で最初に念仏を説いた念仏発祥の地で、上人の廟所のあった所として、浄土宗寺院の中でも重要なところ。1198(建久9)年、熊谷蓮生法師(熊谷次郎直実)が法然ゆかりの地である粟生野の地に、念仏三昧院を建立したのにはじまる。応仁の乱に続いて元亀・天正の乱で兵火に会い、主要な建物はほとんど焼失。現在の諸堂はそれ以降の建築。

浄土門根元地 紅葉の参道 1 紅葉の参道 2

■光明寺の寺名 法然上人入滅後、叡山の衆徒が大谷の墳墓を暴いて、遺骸を鴨川に流そうと企てたので、門弟たちは密かに遺骸の石棺を嵯峨に、また太秦に移した。その後、上人の棺より光明が南西の粟生野を照らしたため、この粟生野の地で荼毘に付し、遺骨を納め御廟を建立。この時の奇瑞にちなんで、これ以後、念仏三昧院は光明寺と称する。

◆浄土門根元地 1563(永禄6)年、正親町天皇から、「法然上人の遺廟光明寺は浄土門根元之地と謂いつべし」とのことばを受けたことによる。

■総門 1845(天保16)の建造で「高麗門」という形式。いつでも、どなたでもお参りいただけるように、年間を通じて開けてある。この門をくぐると、56000平方メートル(18000)にわたって伽藍が広がっています。

■閻魔堂 もともとは閻地院というお寺のご本尊。閻魔さまは、「地獄の主」として知られているが、実は菩薩さまの化身で、私たちを極楽の世界へ導こうとしているといわれている。

◇東行逆馬の碑 蓮生法師の最も有名なエピソードの一つが「東行逆馬」。蓮生法師は阿弥陀様がいらっしゃる西方をうやまうあまり、関東への布教の旅に出るときも、「西におしりを向けて進むことはできない。」とし、馬に逆さに乗って西をおがみながら進んで行ったという。

◇塩田紅果の句碑 「うつし世の 楽土静けし 花に鳥」金沢蟻塔会を主宰していた塩田さんは昭和初期に活躍した歌人。

■観音堂 洛西観音三十三霊場の七番目の札所。十一面千手観音[重文]を祀る。ただし、京都国立博物館に寄託。恵心僧都の作と言われているが、西山の浄土谷の奥深くの田んぼの中から発見されたという伝説がある。現在この観音堂には、八番霊場の粟生観音寺の十一面千手観音を祀る。

 

■経蔵と「法然上人袈裟掛の松」 1707(宝永4)の建造。一切経と呼ばれるたくさんの経典や注釈書、その版木などを収納。

「袈裟掛の松」は、法然上人が初めてお念仏の教えを高橋茂右エ門夫妻にお説になられた後、しばらく西山広谷の地に留まろうと思い立ち、袈裟をおぬぎになって掛けられた松の木と伝えられる。もともとは本山の裏山の奥深に生えていたものであったが、1982(昭和57)に株分けされて経蔵の前に移された。

■法然上人の「石棺」 御影堂の右手前、大きな石棺があり、柵の前の碑には「圓光大師御石棺」と刻まれている。圓光大師とは法然上人の大師号で、上人がお亡くなりになって約500年の後、東山天皇から贈られた。

■御影堂 1753(宝暦三)年の再建。入母屋瓦茸総欅造。本尊は中央正面の宗祖円光大師(法然上人)御自作の「張子の御影」。上人75歳、1207年讃岐へ流罪のとき,母君からの手紙をもとに船中で自ら造られたといわれている。脇壇には善導大師、西山国師、熊谷蓮生法師、浄音上人の像を安置する。

◆張子の御影 御影堂の中央に安置されている像は、法然上人がお母様からの手紙を水にひたし、自ら作った「張子の御影」といわれている。

阿弥陀堂 1799(寛政11)年に再建。入母屋瓦茸総欅造。本尊、丈六の阿弥陀如来像は熊谷蓮生法師が琵琶湖堅田の浮御堂の千体仏中尊であったのをお迎えして、法然上人が開眼された霊像で恵心僧都作と伝える。また、像の後光の上部にはめ込まれている阿弥陀如来像は法然上人の作といわれている。

御本廟 1653(承応2)年の改築。方形造桧皮葺。法然上人の遺骨と火葬跡の灰と土とを固めて、五重の塔を作り、墳墓の上に奉安している。

釈迦堂 入母屋造瓦茸。本尊釈迦如来は※頬焼けの釈迦といい、左の頬に焼火箸で焼かれた傷跡が残っている。

◆信楽庭 勅使門の前、白州に十八個の大小の石を配した。この庭は弥陀三尊をはるかに仰ぎつつ一人の行者が生死の大海をわたる姿を表現している

【重文】 二河白道図(絹本着色)・四十九化仏阿弥陀来迎図(絹本着色)

                千手観音立像(木造) 

※頬焼けの釈迦

 江戸時代、京都の淀に水次郎という漁師がおりました。この男、大変な荒くれ者で、皆は水次郎とは呼ばずに悪次郎と呼んでいました。ある日を境に、水次郎の所に托鉢僧がやって来るようになりました。布施をする変わりに殴ったり蹴ったりして追い返すのが常でしたが、それでも痛がりもせずに毎日托鉢僧はやって来ます。それで水次郎は腐った魚を鉢の中に投げ込めば少しは嫌になって来なくなるだろうと思い用意をして待っておりました。いつものようにやって来た、托鉢僧の鉢めがけて水次郎は腐った魚を投げ込みました。ところが托鉢僧は嫌な顔をするどころか、にっこり笑って頭を下げ帰って行きました。水次郎、腹が立ってしかたがなくなり、こんどこそはと一生懸命考えました。そして次の日、水次郎の足元には火鉢がおかれ、中に火箸が突っ込んでありました。そこに、いつもように托鉢僧がやって来て水次郎の前で立ち止まりました。その時、水次郎は足元の火鉢から真っ赤に焼けた火箸を取り出し、托鉢僧の左の頬めがけて叩きつけました。托鉢僧の頬は裂け肉が焼け、血が飛び散り醜い姿になりました。ところが、托鉢僧は痛がりもせず、ペコリと頭を下げ帰っていきました。水次郎は辺りを見渡すと、足元から粟生のお寺の方へと血がついていっておりました。それを見つけた水次郎、なにかに取り付かれたようにその後をついて行きました。
 お寺に入ると、そこにいたお坊さんに「今日托鉢僧に行った人に合わせろ」とつめよります。ところがそのお坊さん、「今日托鉢僧に行ったものなどいない」と言って相手にしてくれません。そこで水次郎がさっき見た托鉢僧の姿をこと細かに説明しました。するとお坊さんびっくりして、「もしや!」と叫ぶとお堂めがけて走って行きました。水次郎も後を追います。お坊さんがお堂の戸をあけ、水次郎とお坊さんが一緒にお堂のなかをのぞき込みます、すると御本尊のお釈迦様の左の頬に火傷の痕があり血がしたたったようになっていました。それを見た水次郎、今までやった悪いことをすべて吐き出し「どうか許して下さい!」「私のような者は絶対に救われないと思っておりました。ところが私の処にもお釈迦様はおこしになっておられたのに、それに気付くどころか、酷いことをしてしまいました。もう二度と悪いことはしません、どうか許してください」と泣きながら懺悔しました。それ以来水次郎は二度と悪いことをしなくなり、その後皆から弥陀次郎と呼ばれるような人になったそうです。

参考資料 昭和京都都名所図会 竹村俊則著より

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