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【清水寺】 北法相宗本山》075-551-1234

清水寺の紅葉 2010年11月 雪の清水寺はこちらをクリック

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 延暦(えんりゃく)年間(782〜806)、※坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の草創(そうそう)と伝える。妻の安産のために鹿を求めて登山した田村麻呂に、延鎮(えんちん)上人が観音(かんのん)菩薩(ぼさつ)の慈悲(じひ)を教え、殺生(せっしょう)の非を諭(さと)したことから、田村麻呂が上人に帰依(きえ)、仏殿を建てたのが起こりと伝える。当時では珍しい私立の寺で、奈良興福寺(法相宗(ほっそうしゅう))に属していたが、1965年「北法相宗」として独立した。度々兵火を受け、現在の主な建物は、1633年、徳川家光の再建。清水寺は俗称、本名・音羽山北観音寺。南観音寺は奈良の子(こ)島寺(じまてら)。西国三十三所第16番札所

仁王門 随求堂 西門
三重塔 経堂 開山堂

※坂上田村麻呂758〜811 平安初期の武将で征夷大将軍。蝦夷地の平定などに功績をあげ、大納言になる。墓は勧修寺東栗栖野。

首振り地蔵(善光寺) 仁王門前階段の下、北側にある。思う人の方角に首を向けて祈願すると願いがかなう。

馬駐(うまとどめ)[重文・室町] 謡曲「熊野(ゆや)」で謡われている。昔、貴族や武士がここで馬から下り、乗馬をこの建物につないで徒歩で諸堂へ参拝した。至って実用的に簡素な造り、貫鼻(ぬきはな)などに繰形(くりがた)を飾っている。厩(うまや)の遺構としては我が国最古。

仁王門[重文・室町] 
清水寺の正門。阿吽(あうん)の金剛力士像。阿形(あぎょう)は右、吽形(うんぎょう)は左。平成16年修復。昔の丹塗りを淡美に残し「赤門」と呼ばれる。正面軒下に平安時代の名書家・藤原(ふじわら)行(いく)成(なり)の筆と伝える「清水寺」の額を掲げている。


鐘楼[重文] 慶長12年(1607)の再建。2.3トンの重い梵鐘を吊るために六本柱、四方転(ころ)びの技法を用い、柱に貫(ぬき)を三重に通して組み固めている。なお牡丹彫刻の懸魚(けぎょ)や菊花彫刻の蟇股(かえるまた)などに桃山様式の美を見せる。

◆梵鐘[重文・室町] 
現在の鐘は応仁の乱後、清水寺を復興した願阿上人の大勧進活動によっ
て文明10年(1478)改鋳、銘文に明記されている。

随求堂 江戸中期再興。塔頭慈心院の本堂で、享保3年(1718)再興。本尊に、衆生の願い求めにすぐに随って、すべて叶えてくれるという随求菩薩(ずいぐぼさつ)[秘仏]を祀り毘沙門天と吉祥天を脇侍(きょうじ)にする。また大聖歓喜天や粟島明神など縁結び・安産・子育ての神仏を祀る。近年、お堂の地下に入って、仏の胎内巡りで有名。

三重塔[重文] 寛永9年(1632)の再建。日本最大級の三重塔で高さ31m弱。昭和62年(1987)解体修理、総丹塗りと共に桃山様式を示す各重横木の極彩色文様を復元し、一重内部に大日如来像を祀り、四周の壁に真言八祖像を描き、天井・柱など密教仏画や飛天・竜らの極彩色で荘厳。我が国屈指の三重塔。

西門(さいもん)[重文] 寛永8年(1631)再建の、優雅な三間一戸の八脚門(はっきゃくもん)。正面に向拝(こうはい)をつけ、木階に高欄を設けて一見拝殿風に作り、背面には軒唐破風(のきからはふ)を架ける大層珍しい形式。持国天・増長天を安置。夕日に極楽浄土を観想(かんそう)するためかもしれない。随所に優れた蟇股(かえるまた)や木鼻(きばな)など多く備え、丹塗りと極彩色文様が復元されて華麗な桃山様式の美を見せる。

田村堂(開山堂)[重文] 寛永8〜10年(1631〜33)の再建。正面に蔀戸(しとみど)を吊り、軒廻りに丹塗りを残す。謡曲「田村」に謡われている「田村堂」で、清水寺創建の本願主・坂上田村麻呂夫妻の像を堂内中央、須弥壇上の厨子[重文]内に祀り、併せて清水寺元祖の行叡居士(ぎょうえいこじ)と開山の延鎮(えんちん)上人を祀る。

経堂[重文]  寛永10年(1633)の再建。釈迦三尊を安置、一切経を納める。もとは講堂であったという。鏡天井に岡村信基筆の墨絵の円竜が描かれている。平成12年(2000)解体修理落慶。

北総門[重文] 寛永8〜16年(1631〜39)間に再建された薬医門。元来は塔頭(たっちゅう)(旧本坊)成就院の正門であった。東隣に弁天堂が建ち、北裏側に月照・信海兄弟上人の歌碑と西郷隆盛の詩碑が並ぶ。

中門=轟門(とどろきもん)[重文] 寛永8〜10年(1631〜33)再建の三間一戸の八脚門。妻や天井の構造は東大寺転害門を縮小して写す。正面軒下中央に月舟禅師(1618~96)の名筆「普門閣」の扁額を掲げる。左右両脇間に持国天像と広目天像を祀り、背面には阿(あ)・吽(うん)形の狛犬を安置する。なお門前には梟の手水がある。轟橋は清水寺の口をかたどり、橋板中央の木板は舌を、両側石板は歯を意味するといわれ、手洗水で口をゆすぐと歯痛・頭痛が治まると伝える。

朝倉堂[重文] 開山堂らと同時期の再建。創建は永正7年(1510)、越前の守護大名・朝倉貞景が「法華三昧堂」として寄進した。堂内中央の宝形造・唐様厨子[重文]内に本堂同様に千手観音ら三尊を祀る。

仏足石 釈迦の足跡の文様を彫った石。「観仏三昧経」などに仏足を拝めば無限無量の罪けがれも消滅するとあり、また豪傑武者 平景清の足形とも伝説されて、参詣者や修学旅行生たちの手で撫でられ続け、ありがたい十一種類の文様が摩消を甚だしくしている。

金棒と下駄 約90kg?の金棒、男が持ち上げると出世、女が持ち上げるとお嫁に行けない?

本堂[国宝] 1633年の再建。本尊は十一面千手観音で厨子内に安置、33年に1度のご開帳になる。西暦2000年はその年にあたる。本尊の厨子前には、お前立ちが安置。脇侍に左右の厨子には将軍地蔵、勝敵毘沙門天、厨子の両側には二十八部衆と風神・雷神が祀られている。本堂に上がって鐘を鳴らし、お参りすると、御利益が多いかも?

清水の舞台 舞台から阿弥陀ヶ峰 釈迦堂
奥の院 奥の院・ふれ愛観音 舞台を見上げる

清水の舞台 高さ約13mの懸造り(舞台造り)。139本の柱に支えられた舞台は釘を使っていない“地獄止め"。また、「清水の舞台から飛び降りたつもりで」とよくいうが、飛び降りた人のことが『宇治拾遺物語』に見える。実際、よく飛び降りたようだ。明治時代の写真には、飛び降り防止の柵まであった。懸崖の下には地蔵が多くみられる。飛び降りた人を祀っている?

地主神社 本殿・拝殿・総門[重文] 産土神であったが、清水寺創建によって寺の鎮守になる。現在の建物は、1633年家光による。大国主命を祀り、縁結びの神として信仰。『恋占いの石』は、目をふさいで石から石へたどり着けば諸願成就、恋も実る?また、中世以降の桜の名所でもあり、地主櫻として、謡曲『田村』『熊野』にでてくる。

釈迦堂[重文] 昭和47年(1972)、大豪雨禍にあい、同50年に寛永8年(1631)再建の姿に復旧した。堂内奥中央部に朱漆塗り円柱の来迎柱をたて、須弥壇上に釈迦三尊像(藤原)を祀り、長押(なげし)、貫(ぬき)に極彩色を施し、鏡天井に遊飛する天女を彩画している。

阿弥陀堂[重文] 寛永8〜10年(1631〜33)の再建。前面一間は広く開放して礼堂(らいどう)として、通路を兼ねる。長押(なげし)・頭貫(かしらぬき)・虹梁(こうりょう)・蟇股(かえるまた)には極彩色文様が、外陣中央の天井には迦陵頻伽(かりょうびんが)が描かれている。内陣には丈六の阿弥陀如来坐像を安置する。法然上人が日本最初の常行念仏を修した所で、上人像も祀っている。京都六阿弥陀の一つ。

◆百体地蔵堂 子どもを亡くした親たちが、子供そっくりの地蔵を探しあてて崇拝を厚くし、夏の地蔵盆会に賑う。なお釈迦堂北隣には西向き地蔵堂が建つ。

濡れ手観音 石の玉垣にかこまれた小池中に、可愛らしい石仏として立つ。北隣の蓮華水盤で柄杓に水をくみ、肩からかけて、自分自身の心身の清めと諸願成就を祈願する。台座に「観世水」とある。

奥の院[重文] 本堂と同期の寛永10年(1633)に再建され、本堂同様に舞台造りになり、「奥の千手堂」とも。千手観音三尊と二十八部衆、風神・雷神を祀る。清水寺開創を起縁する音羽の滝の真上に建ち、元祖・行叡居士と開山・延鎮上人練行の旧草庵跡と伝える。昔の真言宗兼学兼宗を伝統して、弘法大師像も奉祀している。

子安の塔[重文] もと馬駐の向かい側にあったが、明治の末に移築。一説に光明皇后が当観音に祈って孝謙天皇を安産され、その報恩のために建立されたと伝える。安産祈願の信仰が篤い。高さ約15m、桧皮葺きの三重塔。

音羽の滝 清水寺の開創を起縁し、寺名を由来する。こんこんと流れる出る清水は古来「黄金水」「延命水」とよばれ、”清め”の水として尊ばれ,開祖行叡居士・開山延鎮上人の滝行を伝統して水垢離(みずごり)の行場となり、またお茶の水汲み場となってきた。今日、参詣者が行列をつくって柄杓に清水を汲み、六根清浄、諸願成就を祈る。滝祠に不動明王や行叡居士を祀っている。

阿弖流為(あてるい)母礼(もれ)の碑 平安律令政府の東北征服戦争に対してゲリラ戦で頑強に抵抗した蝦夷(えみし)の首長と副将で、征夷大将軍・坂上田村麻呂の軍に帰順、将軍が両雄の武勇と器量を惜しみ、戦後の蝦夷経営に登用すべく朝廷に助命嘆願したが、許容されず両雄は河内の国で処刑された。平安建都1200年を期し、両雄の故地、岩手県水沢・江刺地方の関西在住者や地元の有志が両雄の鎮魂・顕彰の碑を1994年に建立した。清水寺の創建には、奥州への鎮魂が深くかかわっているのではないだろうか?

成就院 寛永16年(1639)、東福門院(とうふくもんいん)和子(まさこ)の寄進によって再建。清水寺本坊で、幕末、当時の住職であった月照(げっしょう)と弟の信海(しんかい)は勤王僧として活躍し、月照は西郷隆盛と共に薩摩に逃れ、有明の海に入水自殺した。院前に西郷・月照・信海の碑がある。明治〜昭和にかけて中興開山良慶和上(1875〜1983)が住持した。

成就院庭園[名勝] 相阿弥原作・小堀遠州の補修とも、松永貞徳の作とも伝える。模範的な借景式・池泉観賞式の庭園で、誰が袖手水鉢・烏帽子石・蜻蛉燈籠、手毬燈籠などが名高く、五葉松・侘助椿が一段と風趣をそえる。雪月花の名園の一つ『月の庭』。『雪の庭』は妙満寺、『花の庭』は北野成就院(廃寺)。

◆石仏群 地蔵信仰の厚い京都市民が各町内の大日堂や地蔵堂などに祀って毎夏に地蔵盆会を営んできた石仏で、明治の廃仏毀釈によって運び込まれた。

◇清水寺七不思議 @景清の爪彫り観音 Aの門には扉がないB景清の足形石
Cの手水鉢 Dカンカン貫E轟橋は歯痛の人が渡るとなおらない F馬駐の環の2カ所が逆

参考資料 昭和京都都名所図会 竹村俊則著及び清水寺公式サイトより

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