京都観光タクシー同友会の観光案内
【石清水八幡宮】 TEL 075-981-3001
《祭神・
859(貞観元)年、奈良大安寺の行教律師の奏請で大分の※宇佐八幡宮を勧請した。それ以後代々皇室の崇敬も深く、源氏が氏神として信仰したこともあって日本全国に八幡宮が分祀されている。山内は創立時から神仏習合し、護国寺をはじめ多くの堂宇が建てられていたが、明治の廃仏毀釈で取り壊してしまった。林立する石灯籠がその名残である。石清水八幡宮の名は、今なお男山の中腹に涌き出ている霊泉“石清水”に因んだもの。
エジソン記念碑 | 参道 | 南創門 |
社殿1 | 社殿2 | 社殿唐破風の彫刻 |
水若宮社 | 若宮社 | 社殿北東角が斜めにカット |
※宇佐八幡宮
■エジソン記念碑 昭和9年、エジソンの白熱電球の実験に男山の竹が果たした役割を永く顕彰するために建立。その後破損がはげしく、昭和59年、有志の人々によって再建された。電球のフィラメントに最も適した材料が、当社境内の竹材が最も優れていることがわかり、これを用いて白熱電球を完成したといわれる。こうして出来た白熱電球は、1000時間も輝き続け、これが実用的な電灯の完成へとつながった。
■書院石庭 作庭家・重森三玲により昭和27年に作られた石庭。八幡大神様の「海神」としての神格に因んだ海洋を表現。白砂の上にはもともと男山に散在していた石14個を大海原に浮かぶ島に見立てて配し、三尊石を組んだもの。15個目の石として、石庭の東南の角には「永仁三(1295)年未乙三月」の刻銘が入った鎌倉期の石灯籠が配置されており、当宮にある450基ほどの石灯籠のなかで唯一、国の重要文化財に指定。
■カヤの木 樹齢700年以上、根周り7m、樹高約20m、樹冠30m の巨樹。京都府下のカヤのなかでも有数の巨木。その昔、カヤの実はカヤ油として灯油などに使われ、大山崎油座でも有名なとおり当宮と油の関係から御神木とされている。
■南総門 南総門から社殿を見ると、社殿が少し西側を向いている。参拝したのち帰る際に、神前に対して真正面に背を向けないよう中心を外している。
■社殿[重文] 1634(寛永11)年の再建。徳川家光の造営によるもので本殿・外殿・幣殿・舞殿・楼門・回廊からなる。丹塗りの社殿はいたるところ飾り金具や精密で彩色豊富な彫刻で飾られ、絢爛豪華な桃山時代の文化を伝える。本殿はよく見えないが、檜皮葺、前後二棟の八幡造といわれる建築様式で、外陣と内陣とにわかれ、両方の屋根の接するところに有名な織田信長寄進の金の樋がかけられている。楼門は一間一戸、入母屋造とし、前方に唐破風の向拝付し、その柱が一段下がった石段上にあって、二階造りの楼閣のようにみえる珍しい建物。
■築地塀 通称「信長塀」とも呼ばれ、織田信長公が好んで採用した様式といわれている。瓦と土を幾重にも重ねることにより、当時の築塀における課題であった鉄砲の銃撃や耐火性、耐久力に優れていたとされている。
■校倉 建築年代が不明確。文書や絵図などには江戸時代中期から存在し、類例の少ない校倉建築として、平成21年3月に石清水社・石清水井とともに京都府より文化財の指定をうける。
■鬼門封じ 牛の角を持ち、虎の皮を身にまとった鬼が来るといわれる丑寅の方角[鬼門](東北)を封じるために、社殿の石垣を切り取った造りになっている。
■一の鳥居 表参道入口に立つ、石清水八幡宮の山麓の顔「一ノ鳥居」は、高さ約、最大幅約11mの花崗岩製。現在の額は寛永の三筆と称された松花堂昭乗が元和5(1619)年、行成筆跡の通りに書写したものです。特に「八」の字は、八幡大神様の神使である鳩が一対向かい合い顔だけを外に向けた独特のデザイン。
■頓宮 山麓の一ノ鳥居にある当社の御旅所をいう。石清水祭や青山祭の行われるところで、むかしは四方に回廊があり、壮麗を極めたが、明治元年焼失。今の社殿は大正4、回廊は昭和44年の再建。
■五輪石塔[重文・鎌倉] 頓宮の西側にある。高さ6mにおよぶ巨大な石造五輪塔で、大きさにおいては我が国第一といわれている。もとお寺の遺物であったが、寺が滅びて石塔のみが残ったといわれている。
■高良神社 山麓の二の鳥居と頓宮の間にあるお社。仁和寺の僧がこの社を八幡宮と誤り、山上へ登る人たちを憐れんだという吉田兼好の“徒然草”の話で有名。八幡の氏神として信仰されていて、毎年7月の“太鼓まつり”は、特に有名。
■影清塚 山下の表参道に出たところにあって、『都名所図会』巻五によれば、平家の侍大将悪七兵衛影清が主君のあだを討とうとしてこのところに隠れ、参詣の源頼朝をねらったところと伝える。
■松花堂跡 表参道から影清塚の分岐点を右に上がり、石清水社へと向かう途中に江戸時代初期、松花堂昭乗(1584〜1639)が営んだ[松花堂]という方丈の建っていた跡地がある。松花堂と泉坊の客殿は、明治初年のいわゆる「神仏分離」後、幸運にも破却されずに残る。その後、幾度かの移築を経て、現在の松花堂庭園は昭和52(1977)年に八幡市の所有となり管理運営されている。
■石清水社 本社の東門より坂道をくだること200メートルの中腹にある。天御中主命を祀る摂社の一つで、当社の発生のもととなった清泉が今なお岩間から湧き出ている。社前には松花堂昭乗の筆で、寛永12年(1635)京都所司代板倉重宗が寄進した旨を記した石鳥居がある。石清水は、厳冬にも凍らず大旱にも涸れない霊泉として、男山五水の中でも特に尊ばれ、往古より皇室および将軍家の祈祷にあたっては、この霊水を山上の本宮に献供するのを例としている。
◆石清水祭 石清水放生会といい、勅祭として8月15日に行われていたが、明治神仏分離令によって今の名にあらためられた。祭礼は9月15日の午前2時すぎ、三基の鳳輦が山を下り、山麓の絹屋敷で里神楽を奉奏し、ついで頓宮に入ってここで古儀による祭典を行い、その夜ふたたび山上の本殿へ還幸される。日本三勅祭の一つ。
【八幡神について】
八幡神とは応神天皇のこといわれている。『八幡』は『はちまん』であり、または『やはた』とも読める。宇佐地方には、弥秦(ヤハタ)神を崇拝する秦氏、応神天皇・神功皇后を崇拝する大神氏の激しい勢力争いがあった。当時、没落していた宇佐国造家出身で僧侶・法蓮の活躍により、ヤハタ神も応神天皇も同体の八幡神だと断定したという。その結果、八幡神は応神天皇であると定まったという。石清水八幡宮は、宇佐神宮から勧請したものだが、本来は秦氏の氏神・ヤハタ神を祀っていたかもしれない。渡来氏族・秦氏の信仰する神が、天皇家の信仰する神に取り込まれているように見える。また、北九州八幡、京都八幡、宇治川上流の木幡、桂川上流の太秦、いずれも秦氏の足跡が地名となる。
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