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【方広寺(大仏殿)】 《天台宗》075-531-4928

1586(天正14)、秀吉は全国統一の基礎を固めるや、東大寺にならって大仏殿を創建。総監督に五奉行の一人、前田玄以を当て木造の毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)を作らせた。所用の材木は、熊野・木曽をはじめ各地から集められ「くぎ」「かすがい」に必要な鉄は、刀狩で没収した刀剣から得、石垣に用いる巨石は秀吉配下の諸侯から献上せしめた。9年の歳月を費やして1595(文禄4)に竣工し、この時の木造大仏は高さ十六丈の毘盧遮那仏が安置されたという。しかし、慶長元年(1596)の地震によって伏見城はこわれ、大仏殿も倒壊、大仏は大破、破壊された。秀吉は1597年、信濃国善光寺の本尊・阿弥陀如来像を移して代わりの本尊としたが、残暑が厳しいというのににわかに雪が降り、寒さは人の肌身をさすという気候の異変を生じたので、世人は如来の祟りだと恐れおののいた。よって如来は、信州信濃に返還されたが、それは秀吉が亡くなる前日であったという。

大仏の再建は秀頼によって続けられたが、1602年、銅造大仏の腹内より出火、仏殿は焼亡する。1610年、徳川家康の勧めもあってふたたび再建に着手。1612(慶長17)に竣工した。しかし、1614(慶長19)開眼(かいげん)供養(くよう)が行われる予定のまえに、徳川家康が銅鐘の銘文中に「国家安康(こっかあんこう)君臣豊楽(くんしんほうらく)」の文字のあるのは家康を呪詛(じゅそ)するものだと言いがかりをつけ、これを口実にして大阪冬・夏の陣となり、豊臣氏は滅亡した。その後、秀頼再興の大仏は、1662(寛文2)の地震で倒壊し、金銅大仏も壊された。大仏は木造に改められ再建されたが、1798(寛政10)、雷火によって堂宇とともに大仏は焼失する。のち再度、人々の寄進によってできた旧大仏の十分の一の木像を、仮本堂に安置したが、これも昭和483月に失火で焼失した。本堂跡は現在、駐車場となっている。

金銅大仏 壊された金銅製の大仏は、徳川氏によって寛文のと入った寛永通宝に改鋳された。寛永通宝の径が足袋の文数の寸法になったと聞く。

方広寺本堂 鐘楼 銅鐘
銘文「国家安康・君臣豊楽」 淀君の亡霊 方広寺石垣

■本堂 大日如来像・開運大黒天を安置。大日如来像は、200年くらいたったもので、前で拝むと丁度目線が会うという。大黒天は秀吉のお守り像(豊太閤護持)で、豊臣秀吉が実際に戦いの時に使ったお守りが、後ろの小さなお宮の中にある。

◆大黒天像 桓武天皇の勅命により伝教大師最澄が延暦寺を建立するため比叡登山中のお告げにより彫刻されたと伝えられるもの。さらにその像を秀吉が気に入り1/10サイズで作らせ手元に置いたとされる。

銅鐘[重文] 慶長19(1614)に京都三条釜座の名古屋三昌により鋳造された。大きさは高さ4.2m、外形2.8m、厚さ0.27m、重さは82.7t。東福寺の僧、文英清韓(ぶんえいせいかん)の撰文になる問題の銘「国家安康・君臣豊楽」は今なお歴然と判読される。また、鐘の内部には「淀君幽霊姿」と称する斑点がある。

 この鐘は豊臣氏の滅亡の因をなしたものであり、徳川氏によって当然つぶされるべきはずのものであるが、それにもかかわらず後世に残されたのは、大阪出陣の理由を正当化するための必要な証拠物件と認めたからであろう。

□石垣[史跡] 大和大路に面して築かれている石垣は、秀吉配下の諸侯達が方広寺の創建にあたって献上したもので、巨石の表面に家紋が刻まれている。初め小石を以って築いたが、秀吉は仏法も衰えれば盗まれることもあろうと思い、諸侯に命じて各地から巨石を集めさせた。特に蒲生氏郷の引いてきた石は二間に四間という大きな石で、容易に搬送することができなかったから、遊女を石の上に乗せ、音頭を取らせたという。

□大仏と地震 慶長元年(1596)の地震で破壊された大仏殿をみて、秀吉は怒り、「国家安穏を祈って造った大仏が、地震の予知もできないとはなんたることだ。このようなものは信じるにたらぬ」といい、弓を以って矢を打ち込んだと伝わる。

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