京都観光タクシー同友会の観光案内
【彦根城】《平山城》0749-22-2742 博物館0749-22-6100
1622(元和8)年、※
遊覧お堀めぐり | 表門の橋 | 拝観入口 |
入口からの階段 | 天秤櫓を仰ぐ | 天秤櫓 |
天秤櫓から下を臨む | 太鼓門櫓 | 天守閣 |
■彦根城博物館 市制50周年を記念して昭和62年に開館。旧彦根藩庁と藩主の私邸のすべてを発掘調査と古絵図に基づいて再現したもので、建物自体が優れた展示資料の一つ。展示品は城主井伊家代々の所蔵品が中心で、関ヶ原で名をはせた
◆風俗図(彦根屏風)[国宝] 旧彦根藩主井伊家の所蔵品。六曲一双の金地濃彩屏風で、15人の男女が品よく描かれている。寛永年間(1624〜44)、狩野派の作と推定される風俗画で、近世初期風俗画を代表する作品で貴重。
■二の丸佐和口多聞櫓[重文] 入口に向かって左側は佐和山城から移したと伝える旧来のからのものであるが、右側の櫓は、井伊直弼が桜田門外の変に散って100年目にあたる昭和35年復元したもの。
■馬屋[重文] 元禄時代の建築。常に十数頭の藩主の馬がつながれていた。城内に残る馬屋は彦根城だけ。
■天秤櫓[重文] 廊下橋を渡ると、橋を中心にして天秤のようにそれぞれ左右対称に、二重櫓・隅櫓・多聞櫓が並び立つ。建物は羽柴秀吉の長浜城から移築したもの。石垣は右側が築城当時の牛蒡積、左は改修による整った石積で、橋から左右を比較できる。今は架け橋だが、往時は両側に壁があり屋根のある橋で、中の人の動きが外からは見えないようにしてあったといわれている。
■太鼓門櫓[重文] 本丸表口の最終関門にあたるところから牙城の楼門とも呼ばれ、城内合図用の太鼓が置かれた。東側の壁がなく、柱の間に高欄をつけ廊下にしている。太鼓の音を響かせるためではないかといわれている。
■天守、附櫓及び多聞櫓[国宝] 京極高次の大津城天守閣の移築といわれ、附櫓と多聞櫓を脇に置く。1606(慶長11)年の着工。石垣は※牛蒡積、天守の2・3層に花頭窓を開き、唐破風・千鳥格子などを縦横に駆使した変化のある配置。中に入れば通柱をさけた造り、隠狭間など内部の細かい配慮が見学できる。
※牛蒡積→大小の石をとりまぜて、外見は粗雑に見える石垣だが、堅牢第一の石組。石の大きな面を内側にし、小さな面が外にでる
■西の丸三重櫓[重文] 本丸の西側一帯を西の丸と呼び、その西の丸の一番はずれにあるのが三重櫓。10m以上にも及ぶ高い石垣の上に築かれている。浅井長政の小谷城天守閣の移築と伝わる。お花見スポット。
■金亀公園 衣冠束帯に威儀を正した井伊直弼の像と直弼の生涯を描いた舟橋聖一の小説「花の生涯」の記念碑がある。
■玄宮園(八景亭)[名勝] 元禄文化の興隆の動きに乗り、代々備蓄された藩の軍用金が幕府の疑念を招かないようにと、財力にまかせて造り上げた大名庭園。琵琶湖の水を引き、中国湖南省にある洞庭湖の瀟湘八景を模した造りで、木橋や琵琶湖に見立てた池の畔をめぐる池泉回遊式庭園。池に臨んで影を落とす八景亭は風雅な趣で、今は旅館として営業。
■埋木舎 幕末の大老井伊直弼が17歳から32歳までの部屋住時代を過ごした屋敷。部屋住とは家督相続できない身分で、井伊家は家を継ぐ子以外の男子を他家や家来の養子とし、井伊直中の14子直弼は養子先もなく埋木舎で300表の捨扶持に甘んじていたという。TEL0749-23-5268
□明治維新と彦根城 明治11年、明治天皇が巡幸で彦根を通過した際に城の保存を命じたため破却は逃れたという。その際、巡幸に随行していた大隈重信が城の破却中止を天皇に奏上したという説がある。
□彦根城と桜 1934年(昭和9)、城には桜がなかったが、観光のシンボルとしてソメイヨシノの苗木1,000本を城内に植樹した。
□井伊家とお城 1944年(昭和19)、井伊家から彦根市へ、彦根城およびその一帯が寄付される。
□ひこにゃん 彦根藩二代当主である井伊直孝公をお寺の門前で手招きして雷雨から救ったと伝えられる“招き猫”と、井伊軍団のシンボルとも言える赤備えの兜を合体させて生まれたキャラクター。愛称「ひこにゃん」は、全国よりお寄せいただいた1167点のなかから決定。
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