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【東本願寺】 《真宗大谷派本山》075-371-9210

 慶長7(1602)、徳川家康は本願寺の裏方(うらかた)教如(きょうにょ)上人に従来の本願寺(西本願寺)の東に寺地を与え、全国の末寺、門徒(もんと)を二分させたのが起こり。その後徳川家光も寺領を寄進して伽藍の建立を助けたが、天明の大火以来たびたび火災にかかり、現在の建物は明治28(1895)の再建。門前の国名、地名を冠した詰所は、参拝者の宿泊のためではなく、再建に携わるために駆け付けた門徒たちが宿泊した詰所。

教如(きょうにょ)上人1558^1614 顕如(けんにょ)上人の長男。石山合戦で織田信長と対立。文禄元年(1592)父の死で本願寺12世となったが、翌年秀吉から隠退を命ぜられ、弟・准如(じゅんじょ)上人が12世となり、教如上人は北殿に住んで裏方と呼ばれた。のち、本願寺の東西分裂により教如上人は東本願寺12世となる。

東本願寺の噴水 御影堂門 勅使門
本堂(阿弥陀堂) 修復中の本堂 真宗本廟視聴覚ホール天井部分
真宗本廟視聴覚ホール 諸殿内の能舞台 諸殿内の庭園

御影堂門(ごえいどうもん) 明治44(1911)の再建。楼上内部には、中央に釈迦如来、左に阿難尊者、右に弥勒菩薩を安置し、鏡天井には竹内栖鳳筆の天人飛来の図を描く。ちなみに明治の再建時のデザインは北近江長浜別院の山門をモデルとしたという。京都三大三門の一つ。他に知恩院三門、南禅寺三門。

御影堂(ごえいどう) 明治13(1880)に着工、同28(1895)に落成。浄土真宗の教えを開いた宗祖・親鸞(しんらん)上人(11731262)御真影(ごしんえい)が安置。奈良の大仏殿とともに世界有数の木造建築。高さ38m、南北76m、東西58m、屋根瓦は175000(1700トン)。内部は927畳敷の大広間で、正面に親鸞上人の木造を安置し、その左右に本願寺歴代上人の画像が並ぶ。

◆御影堂の大虹梁(だいこうりょう) 堂内の外陣・参詣席境の中央に位置し、左右の柱に大きく架け渡された(はり)で、御影堂で使用されている木材の中でも最大級のもの。長さ約14.5m、木幅1m以上もある欅の大木。記録によるとこの大虹梁は、新潟県の阿賀野川の川底から、数万人のご門徒によって引き上げられたものとある。何百年もの間水中に沈んでいたためにできた腐食箇所をできるだけ取り除き、その部分に木を埋め込み、その上から荒布を巻いて材自体の強度を高め、欅色()の漆を塗って変色を隠し、木目などの飾り彫りを施して備え付けられた。

()(づな) 両堂の再建時、巨大な木材の搬出・運搬の際、引き綱が切れるなどの運搬中の事故が相次いだため、より強い引き綱を必要とした。そこで、女性の髪の毛と麻を撚り合わせて編まれたのが毛綱。当時、全国各地からは、全部で53本の毛綱が寄進され、最も大きいものは長さ110m、太さ40cm、重さ約1t。現在、東本願寺に展示されている毛綱は、新潟県の門徒から寄進されたもので、長さ69m、太さ約30cm、重さ約375kg。また、多くの毛綱は戦時中、軍隊に供出、戦艦の甲板掃除に使用されたという。

※東本願寺に展示されている毛綱は、直径3.5cm、長さ6mです。

大橇(おおそり) 1883(明治16)、新潟県刈羽郡(かりわぐん)より切り出した木材を運ぶ道中、同県中頚城(なかくびき)尾神嶽(おがみだけ)にて雪崩に遭い、27名の死者、50名以上の負傷者を出した事故の際に使用されていたもの。現在、尾神嶽を見渡す場所に報尽碑が建立されている。大橇は1961(昭和36)、同県刈羽郡石黒村の田辺重栄・重五郎氏より寄進されたもの。

■本堂(阿弥陀堂(あみだどう)) 明治13(1880)に着工、明治28(1895)完成。本尊・阿弥陀如来を安置する。本尊に向かって右側には宗祖・親鸞上人が「和国の教主」仰がれた聖徳太子、左側には上人に本願念仏の教えを伝えられた法然上人の御影、さらにその左には龍樹(りゅうじゅ)天親(てんじん)(インド)、曇鸞(どんらん)道綽(どうしゃく)善導(ぜんどう)(中国)源信(げんしん)(日本)(しち)高僧(こうそう)の御影がかけられている。

鐘楼(しょうろう) 明治27年の再建。銅鐘は創建時のもので慶長9(1604)の銘がある。

■勅使門 明治44(1911)の再建。

■参拝接待所・ギャラリー展示 1934(昭和9)年、現在地にあった旧志納場に替えて、武田伍一博士の建築監修のもと、参拝者の休憩や礼金・志納・寄付等の受付窓口として新築されました。また、参拝接待所の北側地下部分には1998(平成10)年の蓮如上人五百回御遠忌の記念事業として、高松伸氏(建築家)監修のもと、「真宗視聴覚ホール」が竣工し、仏間や応接室、参拝接待所ギャラリーなどが設けられています。ギャラリーでは、宗祖親鸞聖人に関する史料や東本願寺の法宝物の展示、東本願寺からのメッセージの発信を行っています。

◆寺宝 (きょう)(ぎょう)信証(しんしょう)6[国宝](親鸞上人筆)

□本願寺水道 江戸時代4度の火災に遭い、そのたびにお堂を焼失、再建されてきた。本願寺水道は被災の教訓を生かす目的で1897年に完成する。琵琶湖疎水から高低差48mを利用して東本願寺の噴水・堀の水の供給などに使われているという。

■親鸞聖人旧跡(東本願寺)

@無動寺谷大乗院 親鸞聖人は出家の後、最初にここで勉学したと伝える。

《根本中堂から山道を徒歩30分、往復1時間30分》

A西塔 聖光院跡・常行堂 親鸞聖人は、大乗院での勉学ののち、西塔聖光院において常行堂の堂僧として修行に励んだといわれている。

B横川中堂 親鸞聖人が主に勉学されたのが「横川」。()(えん)検校(けんぎょう)であった横川の楞厳三昧院の常行堂において、不断念仏を修する「堂僧」として勉学に励んだといわれている。

C雲母坂 親鸞聖人が満九歳で御得度をされ、最初に比叡山に登られた道。そして、満29歳で比叡山を降りられた道がこの雲母坂と伝える。

D比叡山延暦寺(根本中堂) 親鸞聖人は、満9歳で第62世天台座主慈鎮和尚のもと青蓮院で得度した。

E六角堂(頂法寺) 親鸞聖人はこの六角堂に百日參籠され、95日目の明方に聖徳太子の示現の文を得られたと伝えられている。この示現によって、吉水の地に庵を結んでおられた法然上人をたずね、浄土真実の教えに出遭った。

F岡崎別院 吉水時代、親鸞聖人はこの地に庵をむすび、ここから吉水の法然上人のもとへ通った。1801(享和1)年、東本願寺第20代達如上人の時、堂宇を建立して御坊としたのがはじまり。《岡崎道丸太町東入ル北側》

G安養寺 親鸞聖人は、ここ吉水の地に通い、法然上人から浄土真実の教えを聞いた。近くの弁天堂の境内に「吉水」と彫られた古井戸がある。

H光円寺 聖人の入滅の地に関しては諸説があるが、寺伝によれば当地で入滅し、御遺体は事情があって善法院に移されたという。《松原通新町西入藪下町》

I善法院跡 1262(弘長2)年、親鸞聖人90歳のとき、この善法院において念仏の息が絶え往生の素懐をとげる。以前は校庭に「見真大師遷化之旧跡」と刻まれた石碑が建っていたが、今は裏門片隅に移された。《御池通柳馬場上ル東側》

J延仁寺 親鸞聖人お亡くなりの後、鳥辺野の延仁寺あたりで荼毘(だび)にふされた。この地に1883(明治16)年東本願寺第21代厳如上人の命により荼毘所が設置。

K崇泰院(そうたいいん) 1272(文永9)年、親鸞聖人の末娘である覚信尼は、東山西の麓、大谷の地に納められていた墳墓を改め、廟堂を建て、親鸞聖人の御影像を安置した。これが大谷祖廟の起源であり、本願寺の始まりである。《知恩院三門前上ル東側》

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