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【上御霊神社】《祭神・崇道天皇、井上内親王ほか》075-441-2260

上御霊神社のイチハツ 2011年4月

2010-4-28 2011-4-27 2011-4-27

 正しくは「御霊神社」という。桓武天皇の平安遷都にあたって非業の死をとげた早良親王の怨霊を鎮めるために創祀された社で、祭神は※早良親王ほか、井上(いのえ)内親王他戸(おさべ)親王、藤原吉子、※橘逸勢文屋宮田麿(ふんやのみやたまろ)吉備真備(きびのまきび)をはじめ13柱。境内はかつて御霊杜とよばれ、※応仁の乱の戦端が開かれたところとして知られる。

鳥居・楼門 本殿 拝殿
芭蕉の句碑 南門前イチハツ(07_4_30) 唐板煎餅

※早良親王(750〜785) 光仁天皇の皇子。母は高野新笠。桓武天皇の同母弟。兄・桓武天皇の即位とともに立太子。785年、藤原種継暗殺事件に連座して廃され、淡路国に配流の途中、抗議のため絶食して河内国高瀬橋付近で死んだ。その後、安殿親王の発病や桓武天皇妃藤原乙牟漏の病死などが相次ぎ、それらは早良親王の祟りであるとして幾度か鎮魂の儀式が執り行われた。800年、崇道天皇と追称され、大和国に移葬。

※井上内親王(717〜775) 光仁天皇皇后。皇太子他戸親王と共謀し光仁天皇を殺そうとしたという容疑で投獄され、獄死。

※橘逸勢(〜842) 書の三筆の一人として有名(他に嵯峨天皇・空海)。承和の変の首謀者の一人として文屋宮田麿とともに捕らえられ、伊豆へ流される途中死亡。実際は藤原氏の陰謀とみられる。

■本殿 御所の守護神として皇室の信仰が篤く、中世以来、神殿の改築には内裏賢所を賜わることを例とした。現在の本殿は1733年(享保18)寄進の旧賢所御殿を復元し、昭和45年に再建されたもの。入母屋造、桧皮葺、正面に一間の唐破風の向拝を付している。

■絵馬舎 皆川淇園の筆と伝える「威原図」や安政年間に奉納された「鴨川浚砂持ち図」、小林雪山筆「騎上武者図」等の絵馬を掲げる。

◆御霊祭 毎年5月18日。神輿は、後陽成天皇・後西天皇の寄進といわれる。また、所蔵の「指鉾(剣鉾)」15基は、いずれも歴代天皇の寄進によるもので、このうち1294年(永仁2)の伏見天皇寄進の太刀鉾が最も古い。

■花御所八幡宮 明治維新までは付近の小山にあった五所八幡宮を移したものといわれ、あるいは足利室町殿内にあった花乃御所八幡宮とも言われる。

◆芭蕉の句碑 「半日は神を友にや年忘れ」1690年(元禄3)、上御霊神社を参詣した松尾芭蕉の句碑。

◆唐板煎餅 上御霊神社の名物。小麦粉を水にこねてうすくのばし、長方形に切って、鉄板で焼いたもの。そば板や八ッ橋ににている。厄病除け煎餅として有名。

※応仁の乱 室町幕府はもともと守護大名に対する強い統制力を持たなかったが、初期には管領・四職家の有力守護大名の補佐によって政権が支えられていた。しかし、室町中期ごろから有力守護大名の対立や反乱に悩まされ、幕府の支配力はさらに衰えた。加えて幾多の失政から農民を圧迫する結果となり、徳政一揆・土一揆が頻発したが、幕府はこれを鎮圧する力もなく、一時しのぎに借金を棒引する徳政令を乱発して、経済を混乱させるばかりであった。

 中央政府がまひ状態にある中で、八代将軍義政は風雅な生活にふけり、嗣子(しし)がなかったので僧籍の弟(よし)()を還俗させて将軍の後継者に決めたところ、翌年実子(よし)(ひさ)が生まれ、継嗣(けいし)争いが起きた。当時の守護大名のうち、細川勝元と山名(もち)(とよ)(宗全)が幕府の主導権をめぐって対立していたが、義尚の生母・日野(ひの)富子(とみこ)が山名方に頼ったため、細川方は義視を助けて対立に拍車をかけた。

 同じころ幕府の重臣斯波(しば)(はたけ)(やま)家にも家督相続争いがあり、この争いもそれぞれ細川・山名両派に結びつき、天下を二分の形勢となった。

 1467年(応仁元)、畠山(まさ)(なが)義就(よしなり)の衝突が起こり、上御霊神社の森で合戦になった時、山名宗全はひそかに義就を助けて大勝させ、政長が頼る細川勝元も兵を挙げて大乱に発展した。細川方は兵を集めて室町の東に布陣、山名方は西に布陣した。東・西両軍は京都で攻防を繰り返し、市中は焼け野原となった。しかし、1473年(文明5)山名宗全が死に、相次いで細川勝元も死んだため、1477年(文明9)大乱は終結した。この結果、地方では、諸国争乱の戦国時代に突入する

【下御霊神社】《祭神・崇道天皇、伊予親王ほか》075-231-3530

 平安初期に伊予親王とその母藤原吉子の霊をなだめるため出雲路に置かれた御霊社の一つで、北にある御霊(上御霊)神社に対して下御霊神社と呼ばれている。その後、祭神に早良(さわら)親王・藤原広嗣(ひろつぐ)橘逸勢(たちばなのはやなり)文屋宮田麿(ふんやのみやたまろ)と以上六柱の和魂(にぎみたま)吉備(きびの)聖霊(しょうりょう)、同(あら)(みたま)()雷神(らいじん)を加えて八座となる。中世には新町出水に社地を移したが、応仁の兵火に焼亡し、1590年(天正18)現在地に移した。

神社鳥居 本殿

本殿 天明の大火後、1790年(寛政2)皇居の内侍所旧殿を賜わって再建。

◆表門 旧建礼門を移したとつたえ、もとは桧皮葺であったが、火災を考慮し、明治以降に瓦葺に改めた。

◆社家 寛政以後の建築で、現在は社務所と神官の住宅となっているが、近世の神官の邸宅を伝える貴重な遺構で、入り口の鳥居形のひさしや棟など特殊の形式。

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