京都観光タクシー同友会の観光案内
【銀閣寺(慈照寺)】《臨済宗相国寺派》075-771-5725
銀閣寺の紅葉 2010年11月/雪の銀閣寺はこちら
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文明14年(1482)、室町幕府、8代将軍・足利義政は将軍職を実子・義尚に譲り、祖父・義満の造営した北山殿(金閣)にならって、東山山荘を造営、義政の死後8年後に完成、遺言により寺となり、相国寺に属した。義政が集めた珍器類や伽藍は、銀閣・東求堂を除いて、その後の兵火で焼失する。寺名は義政の法号慈照院殿にちなんでいる。
銀閣1 | 向月台 | 銀閣寺型手水鉢 |
東求堂 | 白鶴島 | 馬酔木 |
洗月泉 | お茶の井 | 漱蘚亭の岩組 |
有楽 | 銀閣2 | 秋の庭園 |
■銀閣寺垣 総門から中門にかけた参道は、椿や樫の木など12種類で作った生垣が続き、その足元の竹垣を『銀閣寺垣』という。この参道は、短い道を少しでも遠くに感じるような造りになっている。
■銀閣(観音殿)[国宝] 1489年の上棟式で完成は不明。下層“心空殿"は広縁をもつ住宅風で、まるで涼みのためのようである。上層“潮音閣"は禅宗様式で観音像を安置。窓は花頭窓(火灯窓)。ちなみに、金閣は金箔をおいているが、銀閣には銀箔をおいた形跡はない。義政は完成前に没しているので、銀箔で仕上げる予定であったかどうかは不明。
■本堂(方丈) 中門、方丈玄関の唐門とともに寛永の再建。
◆銀閣寺型手水鉢 非常に斬新なデザインで、数寄者に好まれている。
■東求堂[国宝] 語源は「東方の人、仏を念じて西方に生まれんことを求む」1486年、義政の持仏堂として建てられた書院建築。内部の同仁斎と呼ぶ4畳半の部屋は、日本住宅の基本、書院造の原型といわれている。4畳半の部屋の間取りは、まさにここから始まったという。
■庭園[特名・特史] 西芳寺(苔寺)庭園を模したといわれ、義政の指導のもと、善阿弥の作庭と伝える。下段は“錦鏡池"を中心にした池泉回遊式。池中には寄進した守護大名たちの名をつけた石がある。上段の庭は昭和6年に発掘され、“お茶の井"といわれる湧き水の石組み“相君泉"がある。上下、二段の庭園になっているところなどは、西芳寺とそっくり。
■銀沙灘・向月台 中国の西湖の風景を模し、月待山からのぼる月の美を鑑賞するために造られたといわれている。創建時、この盛砂はなく、江戸時代の出現と考えられる。月は砂の中のガラス質(石英)を照らし、きらきらと輝き、銀閣に反射して銀色の姿をみせるという。江戸時代の観光ガイドブックとも言うべき1780年刊の『都名所図会』にあらわれ、1799年刊の『都林泉名勝図会』にも、それぞれ絵入で紹介されているが、二つの図会の20年近い年月の間でも銀沙灘や向月台の形態は異なる。向月台はまだ円筒の台状に描かれていて今とは趣を違える。明治の資料では向月台の姿はずいぶん高くなり、しかもお椀を伏せたような形。長い歳月のあいだに少しずつ形を変え、今に至り、現在では富士山の型のイメージが強まった感がある。
◇銀閣寺と義政
また東山殿の庭園は義政の築造庭園の中でも現在残っている唯一の遺構。このように優れた趣味に生きた義政の側近には、相国寺の禅僧とともに、実際の工事にたずさわった優秀な作庭家たちがいた。義政がもっとも信頼をして工事を任せたものに河原者の善阿弥がいた。善阿弥は義政の命により蔭涼軒の庭、妙蓮寺の庭園、室町上御所などを担当したことが知られている。
◇東山文化 足利将軍は代々美術品の蒐集に熱心で、特に義満は対明貿易を積極的に促進し、多くの名品を請来。また日本にもたらされた多くの名画や名器、墨蹟などは、平安から室町にかけて中国へ渡った禅僧たちによって請来、全国の大禅刹に収蔵されていたが、多くは歴代の将軍によって献上させられ、将軍家のものとなる。これらの名宝が集められて東山殿の宝庫に収蔵され、義政は同朋衆の一人能阿弥とその子芸阿弥に命じてこの東山御物の選定。義政はこうした東山御物の制定と同時に、東山時代に書院造りの建物が成立するに伴い、書院飾りの法式も能阿弥に命じて作らせ、相阿弥にいたって完成。また能阿弥は茶の湯の作法も発展させ、村田珠光について学び、珠光を義政に推奨した。
◇大文字と銀閣寺
◇復興と荒廃
◇岡本太郎の“銀沙灘の謎”より
◇歴史小説家の澤田ふじ子の推論
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