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比叡山延暦寺の秋

10-11-23 比叡山ドライブウェイ 10-11-23 比叡山ドライブウェイ 10-11-23
10-11-23 10-11-23 10-11-23
10-10-31延暦寺横川元三大師堂 10-10-31延暦寺根本中堂前 10-9-27 比叡山ドライブウェイから

【比叡山延暦寺】《天台宗総本山》℡077-578-0001

 788(延暦7)年、最澄(さいちょう)が一堂を建てて自刻の薬師如来像を安置し、比叡山寺(のちの一乗(いちじょう)止観院(しかんいん))と名づけた。最澄没後の823(弘仁(こうにん)14)年、嵯峨天皇から勅許(ちょっきょ)を得て、延暦寺と号した。その後、最澄の遺志を継いだ弟子及び法孫によって延暦寺は発展し、平安末期、18代座主(ざす)良源(りょうげん)のときには三塔(さんとう)(東塔(とうとう)西塔(さいとう)横川(よかわ))十六谷(じゅうろっこく)三千坊(さんぜんぼう)を数えるほどの全盛を迎えた。法華(ほっけ)密教(みっきょう)浄土(じょうど)(ぜん)の各信仰が展開され、その後の日本仏教の様々な宗派が生み出されていったことから「母なる山」とも呼ばれる。1572(元亀(げんき)2)年、織田信長の軍によって全山が焼討ちされ、難を(まぬが)れたのは西塔にある小堂・瑠璃堂(るりどう)のみ。しかし、その後豊臣秀吉や徳川氏によって再興され、寛永年間(1624^44)にはほぼ現在の姿になり、千二百年の法灯(ほうとう)を今に伝える。

奥比叡ドライブウェイから琵琶湖を望む

 ※最澄 天台宗の開祖、諡号(しごう)伝教(でんぎょう)大師(だいし)。767(神護景雲元)年滋賀郡古市郷に生まれる。12歳で近江国分寺に入り、19歳の時、東大寺戒壇(かいだん)具足(ぐそく)(かい)を受ける。785(延暦4)年、比叡山に隠遁(いんとん)止観(しかん)禅定(ぜんじょう)の日々を過ごす。804(延暦23)年空海とともに入唐(にっとう)、翌年帰朝して天台(てんだい)法華宗(ほっけしゅう)を開き、大乗(だいじょう)戒壇(かいだん)を開設しようとして南都の寺々と対立。822(弘仁13)年最澄の没後七日目、ようやく大乗戒壇を開く勅許(ちょっきょ)がでて、翌年寺号を延暦寺に改めた。

東塔の参道 東塔講堂 鐘楼
春の根本中堂 冬の根本中堂 文殊楼参道

【東塔】

■国宝殿 宗祖(しゅうそ)伝教大師の直筆(じきひつ)をはじめ、仏像・仏画・書跡・美術工芸品など、数多くの国宝・重要文化財を所有。国宝殿では、63点に及ぶ国宝・重要文化財、寺宝数百点の内から選んで随時展示している。

■大講堂[重文] 1964(昭和39)年に山麓、坂本の讃仏堂を移築したもの。学問修行のための講堂で(現在でも5年に1度、法華経に関して激しく論議を行う)、胎蔵界(たいぞうかい)の大日如来を中心に、天台・伝教両大師、比叡山から出た各宗派の開祖(かいそ)の木像を安置する。また、外陣(げじん)には釈迦を始めとして仏教・天台宗ゆかりの高僧の肖像画がかかっている。

鐘楼(しょうろう) 開運の鐘といい、一山に重大な事件が起きると、この鐘が山中に響き渡り、これを聞きつけた三塔(東塔・西塔・横川)の僧や山下にいる山門輩下(はいか)の公人が大挙して大講堂前に集まり衆議をしたといわれる。除夜の鐘として有名。

■萬拝堂と一隅(いちぐう)を照らす会館 日本全国の神社仏閣の諸仏諸菩薩諸天善神を勧請(かんじょう)し、合わせて世界に遍満する神々をも共に迎えて奉安(ほうあん)して、日夜平和と人類の平安を祈願している平成の新堂。一隅を照らす会館は、参拝者のための無料休憩所。休憩所内には、比叡山全景の立体模型が設置されており、比叡山が進めている一隅を照らす運動の実践や、延暦寺を紹介する映像を放映している。

■大黒堂 出世(しゅっせ)大黒天(だいこくてん)ともいい、一山の平安と一般庶民の(しょう)(ふく)などを祈るところ。伝教大師自作の三面(さんめん)大黒天(だいこくてん)をまつっている。

■書院 延暦寺の貴賓館で昭和3年東京より移築された総桧造(そうひのきづくり)の建物。用材は桧の無節をつかい、京都の名建築の粋をきわめた構造も見るべきところがある。特に琵琶湖を借景(しゃっけい)とした旭光の間、お月見の出来る桐の間などは特別来賓客を接待するにふさわしい建物。一般公開はされていない。

根本(こんぽん)中堂(ちゅうどう)(一乗(いちじょう)止観院(しかんいん))[国宝] 延暦寺一山の本堂。徳川家光の命によって1640(寛永17)年に再建。(とち)(くぬぎ)(ぶき)(?(こけら)より厚い板で()く)の回廊を三方にめぐらし、単層、入母屋造、瓦棒(かわらぼう)銅板葺(どうばんぶき)総丹塗(そうにぬり)の豪壮な大伽藍。極彩色の欄間(らんま)蟇股(かえるまた)(ごう)天井(てんじょう)の絵など江戸時代の華麗さを備えている。内部は内陣(ないじん)外陣(げじん)に分かれ、内陣は石敷の床で、外陣より3m低い天台宗の仏殿様式。中央に本尊・薬師(やくし)如来(にょらい)、北側に文殊菩薩(もんじゅぼさつ)、南側に伝教大師(でんぎょうだいし)をそれぞれ祀る厨子(ずし)を須弥壇上に置く。中央須弥壇の宝前には不滅(ふめつ)法燈(ほうとう)がうす闇の中に光を放っている。根本中堂創建以来、1200年もの間一度も油を絶やすことなく灯火(ともしび)が油断なく守られてきたという。

本堂正面中庭の竹台に?篠聚篠(いんしょうしゅうしょう)という篠竹が植えられている。

文殊楼(もんじゅろう) 根本中堂の前にある急な石段上に立つ楼門(ろうもん)。むかしは坂本からの表参道の総門の役目をした。()(かく)大師(だいし)円仁(えんにん)が中国五台山の文殊菩薩堂に(なら)って、創建したもの。1668(寛文8)年に焼けその後の再建。楼上には文殊菩薩を安置する。

戒壇院(かいだんいん)[重文] 正しくは大乗戒壇院といい、僧になることを誓う重要なところで、比叡山の中で最も重要なお堂。宗祖(しゅうそ)伝教大師の努力にもかかわらず存命中には実現せず、828(天長5)年、第一世義真座主になって創建された。内陣には受戒和上、釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)と文殊、弥勒(みろく)両菩薩がまつられる。

法華総持院阿弥陀堂 比叡山延暦寺開創1150年を記念し、昭和12年(1937)に建立。この朱塗りの方形造(ほうぎょうづくり)の建物は法界寺(ほうかいじ)阿弥陀堂を()しており、本尊・丈六(じょうろく)の阿弥陀如来を祀り、全国信徒の位牌(いはい)を安置する。また、昭和61年には寂光堂が落慶し法華総持院東塔(昭和55年の再建)を含め、開創1200年を記念した大伽藍の再建が行われた。

■無動寺谷 ケーブル延暦寺駅から1km下ったところ、根本中堂からだと徒歩25分。明王堂・大乗院・法曼院・弁才天社などの諸堂がたつ。東塔に属するが、はるか南にあたるため南山とも呼ばれ、865(貞観7)年、相応和尚が創建した。不動明王の信仰が盛んで、(かい)(ほう)行者(ぎょうじゃ)の本拠地になっている。

■明王堂 ()(かく)大師(だいし)円仁(えんにん)の弟子相応和尚が貞観(じょうがん)7年(865)に開いたもので、比叡山の千日(せんにち)(かい)(ほう)(ぎょう)の本拠地である無動寺谷の本堂であり、本尊として不動明王が祀られている

【西塔】

(じょう)行堂(ぎょうどう)法華堂(ほっけどう)(にない堂)[重文] 阿弥陀如来を本尊とする常行堂と普賢菩薩(ふげんぼさつ)を本尊とする法華堂は廊下によってつながれているが、弁慶(べんけい)が両堂をつなぐ廊下に肩を入れて担ったとの言い伝えから、にない堂と呼ばれている。常行三昧法華三昧の修行道場。常行三昧(じょうぎょうざんまい)とは円仁(えんにん)五台山(ごだいさん)から伝えた行法で、90日間、堂内を阿弥陀仏の名を唱えながら回る。2堂が渡り廊下で結ばれているのは、法華と念仏が一体であるというのが延暦寺の特色であるためという。

(てん)法輪堂(ぽうりんどう)(釈迦堂)[重文] 西塔の中心で鎌倉時代に造営された純和様建築。本尊は清涼寺(せいりょうじ)式の釈迦如来立像[重文]であって、一般に釈迦堂の名で知られている。内部は根本中堂と同じように天台様式の内陣・外陣をもつ。もと園城寺(おんじょうじ)(三井寺)の金堂(こんどう)であったが、秀吉が文禄4年(1596)西塔に移築したもので山内ではもっとも古い建物である。

浄土院 伝教大師の御廟(ごびょう)がある。弘仁13年(822)6月4日56歳で入寂。大師の遺骸を、慈覚大師が仁寿4年(854)7月ここに移して安置した。現在は12年籠山の僧が毎日、生身の大師に仕えるごとくに奉仕しているという。

相輪とう(そうりんとう)[重文] 釈迦堂の北。心柱に、金色に輝く相輪をつける。高さ10m。インドの仏塔の原形に近いという。釈迦堂からの道筋に鎌倉時代の弥勒石仏がある。

居士林(こじりん) 在家(ざいけ)修行道場として近年開設。居士(こじ)とは、在家の身でありながら、仏教の道を極めること。一般の人々に開放した修行道場。

■瑠璃堂(るりどう)[重文] 信長の焼討ちを逃れた唯一の建物で、3間四方、入母屋造、?葺(こけらぶき)。本尊・薬師(やくし)瑠璃光(るりこう)如来(にょらい)をまつる。室町時代末期の唐様(からよう)建築を現在に伝える。

青竜寺(せいりゅうじ) 瑠璃堂から八瀬へ出るハイキングコースを1キロほど下がっていく。慈恵(じえ)大師(だいし)良源(りょうげん)が開創。若き日の法然はここで修行し、浄土宗の基をつくった。

【横川】

横川(よかわ)中堂(ちゅうどう) 横川の中心になる大堂。848(()(しょう)元)年、円仁(えんにん)(()(かく)大師(だいし))が開き首楞厳院(しゅりょうごんいん)と呼ばれた。雷火で焼失していたが、昭和46年に朱塗の美しい建物が再建。舞台造りで全体的に見て船が浮かんでいる姿に見える。お堂の中央部が2m程下がっており、本尊として慈覚大師作と伝えられる(しょう)観音(かんのん)菩薩(ぼさつ)が祀られている。

()心堂(しんどう) 恵心僧都(えしんそうず)源信(げんしん)(942~1017)、天台宗の僧で『往生(おうじょう)要集(ようしゅう)』を著し浄土信仰に大きな影響を与えた。源信はこのお堂ではじめて念仏三昧に入ったと伝える。

■四季講堂(元三大師堂(がんさんだいしどう)) ※良源の住坊、定心房の跡といわれ、村上天皇の命により四季に法華経を論じたのでこの名がある。堂内に良源の画像を祭り、元三大師信仰の中心になっている。

 ※良源(慈恵大師) 912~85第18代座主(ざす)で延暦寺中興の祖。滋賀県虎姫町または新旭町の出身といわれる。正月三日に没したため元三大師とも言う。(まめ)大師(だいし)(つの)大師(だいし)と呼ばれる大師の御影の護符(ごふ)魔除(まよ)けの護符になっている。

根本(こんぽん)如法塔(にょほうとう) 横川中堂と谷を隔てて立つ朱塗の多宝塔(たほうとう)。円仁(慈覚大師)の写経した法華経を根本如法経といい、1031(長元4)年に寺僧が後世に伝えるため埋納した跡。その際に上東門院(※藤原彰子(しょうし))も写経し金銅経箱[国宝]に納めたのが、1921(大正10)年の塔新築工事の時に出土した。

 ※藤原彰子 藤原道長の長女、母は左大臣源雅信の女倫子。第66代の一条天皇の中宮、第68代後一条天皇・第69代後朱雀天皇の生母。女官に『源氏物語』の作者・紫式部(むらさきしきぶ)、王朝有数の歌人・和泉式部(いずみしきぶ)、歌人で『栄花物語』正編の作者と伝えられる赤染衛門などを従え、華麗な文芸サロンを形成したという。

金銅(こんどう)経箱(きょうばこ)[国宝] 銅製の箱に宝相華(ほうそうげ)唐草(からくさ)(もん)を全体に線刻し、金銀の鍍金を施した藤原時代らしい優美な作。経を埋納したのは平安時代、末法の世を迎え、弥勒菩薩出現まで経典を保存しようとしたためといわれる。

【比叡山】

 四明ガ嶽(839m)、大比叡(848m)の2峰を中心に南北に連なる峰を比叡山という。京都では単に叡山とも呼ばれる。南斜面は白いざらざらとした花崗岩地帯で有名な白川砂が採取されているのに対し、東斜面は、老杉がうっそうと茂り、その中に延暦寺の諸堂が点在する。平安初期、この山を開いたのは天台宗の祖・伝教大師最澄。平安から鎌倉時代にかけて各宗派を広めた法然・栄西・親鸞・道元・一遍・日蓮らの名僧も、一度は比叡山で修行した。日本仏教の発祥地といわれるゆえん。大正大14年12月にケーブルカーが開業、昭和32年には山中を巡る比叡山ドライブウェイと奥比叡ドライブウェイができて、車で登れるようになった。

ガーデンミュージアム比叡

 フランス印象派(いんしょうは)の画家たちの描いた作品をモチーフに、フランス人デザイナーが設計した庭園美術館。約1.7haの園内には、南フランスの丘陵地をイメージした庭園や太鼓橋のかかる睡蓮(すいれん)の池、ローズガーデンなど趣向を凝らした庭園が広がり、1500種10万株の草花が咲き競う。また、庭園内には、モネ、ルノワール、ゴッホなど、印象派の代表的な画家の描いた絵画45点を陶板で再現している。

【千日回峰】

 千日回峰は、いまから1200年ほどの昔、宗祖伝教大師の孫弟子相応和尚が、伝教大師の(けん)(きょう)、慈覚大師の密教(みっきょう)の2つを総合してはじめられたといわれる。千日回峰行は7年間千日を費やして、山中・京都市街をおよそ4万キロ走り歩く修行。一度発願(ほつがん)して行に入ると、途中でやめることができない。もしケガや病気にでもなって失敗すれば、腰にさした短刀で切腹するのがオキテだとされている厳しい修行。行者の衣装は独特なもので、白装束で身をつつみ、頭にはハスの葉を形どった笠をかぶり、わらじがけといった出で立ち。最初の300日はタビをはくことが許されず、これで山間を歩き回る。修行の日は午前1時に起床し、提灯を持って2時ごろ出発する。そして帰りは午前9時~10時ごろになるという。

千日行のうち、最初の3年間は年100日ずつ300日を見習いとして行う。1年目はなれないせいもあって、少し足の弱いものは、丸太棒のように足がふくれあがる。次に4、5年目にそれぞれ200日、6年目100日、7年目に700日というのが標準的な日割りとなっている。5年目の700日までは1日1回30キロを歩く。そして途中で定められた堂塔伽藍、山王七社、霊水霊石など二百数十ヶ所で、定められた修法の行を行う。4年目で450日目がすむと下根満で白帯行者といい、白タスキをかける。ついで中根満ののち当行満といって、その日から無動寺谷の明王堂にこもって9日間(正味7日半)の断食・断水・不眠。不臥(ふが)の荒行をやる。その間に10万遍の不動真言を唱え、生身不動となる。

【比叡山の七不思議】

第一話 一つ目小僧
 東塔の総持坊玄関に一つ目一本足の慈忍和尚の化身といわれる画像がある。この和尚、「仏法がすたれ、僧侶が本分を忘れることがあれば仏天祖師に申し訳ない。死んでもなお充分に見守らねばならない」と決心して亡くなった。その後、悪僧や、にせ坊主がはびこると、必ず一つ目の妖僧が現われ、日夜悪僧たちに取りついてついに下山させたという。「山僧よ、怠けるなかれ、怠け者は退散せよ」

第二話 ナスビ婆
 天海(てんかい)僧正(そうじょう)の住んだ南光坊(なんこうぼう)に、ナスビ色の顔をした妖怪婆が現われ、小僧を驚かせ呪文を唱えて消えたという。この妖怪800年ほど前、上﨟であったとき殺生した報いから魔界(まかい)に堕ちたが、仏菩薩の加護により、身は魔界にあっても心は比叡山に住むことが許されたという。信長の比叡山焼討ちのとき、鐘を打ち鳴らして急を知らせたのはこのナスビ婆であったと伝えている。

第三話 麗人の水ごり
 真夜中、五智院の僧が仏間に入ると、古い位牌が無気味に動き、水音が聞こえる。谷に降りると霊水の湧く泉で水ごりする上半身裸体の美女が見えた。翌日また好奇心にかられ覗き見た僧にその美女の幽霊がうらめしくつぶやいた。「その位牌は私だ、魂をこの霊山に留め修行すれば、幸多き来世が約束されると教えられ行を積んでいる。僧よ、好奇心のため神秘や尊厳を傷つけるな」と諭したという。

第四話 六道おどり
 その昔、横川中堂では毎年盛り沢山な茶菓香花が供えられお盆法要が催された。その夜中、本堂から庭前に出られた聖観音様が印を結ばれると、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天人の亡者(もうじゃ)が集まり、盆行事が始まった。地獄衆のサーカス、餓鬼のフラダンス、修羅の剣舞、人間の陸上競技に続いて天人の延命の舞のあと観音様の講評が終る頃、世が白み何事もなかったように朝事が始められていた。

第五話 一文字たぬき
 西塔のにない堂に、自分の偏屈な性格を改めようと、たぬき彫刻にとりつかれた僧がいた。彫り始めて10日目の夜のこと、疲れて廊下でたたずんでいると、突然眉毛が白く一文字に引かれている大だぬきが現われた。そして「われは一文字たぬきだ。遊び彫刻は仏道から逸するおそれあり。千体悲願を立てよ。そうすれば汝を助けよう」という声が聞こえた。それ以来、千体彫刻を発願したという。

第六話 船坂にモヤ船
 比叡山はむかし女人禁制の霊峰であった。ために山僧を恋人にもった女性、山僧を息子にもった母親等々、比叡山に思いを残しながらこの世を去った女人も多い。これらの亡者が、立ちこめるモヤを利用して参詣のため、船で東塔の船坂にやってきて、か細い声で念仏を唱えていた。これを見た山法師が後をつけていったところ、振り返った亡者の目と合った途端、失神して亡くなったという。

第七話 蛇が池の妖怪
 西塔の赤池(今の蛇が池)に大蛇の妖怪が住んでいた。幾多の修行僧が退治しようとしたが、大蛇は荒れ狂うばかりであった。この時一人の高僧が静かに呪文を唱え、妖怪にその神通力を見せてほしいと切望した。大蛇はたちまち雷鳴を伴って大きくなり釈迦堂を七巻半した。次は小さくなって手のひらにのるほどの小蛇になってみせた。すると高僧はこれを握りしめ壷に封じ込めて退治したという。

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