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【永観堂(禅林寺)】《浄土宗西山禅林寺派総本山》075-761-0007
永観堂の紅葉 2012年11月21日
853年、空海の弟子・真紹僧都が真言宗の道場としたのに始まる。承暦年間(1077〜81)第7世※永観律師が入寺して、浄土念仏を唱えたところから永観堂といわれるようになった。後、真言宗から浄土宗に転宗する。永観堂が浄土宗の寺院へ変わったのは、すべての人々が救われる道をそこに見いだしたから。今も阿弥陀如来の慈悲に導かれ、永観堂は多くの人々の篤い信仰に支えられている。また、紅葉の名所で『もみじの永観堂』として有名である。
◇「古今集」藤原関雄の歌 上記の歌は、平安時代初期に、永観堂を創建した弘法大師の弟子真紹僧都の徳を慕って、自分の別荘を寄進した藤原関雄の詠んだ歌。永観堂は仁寿3年(853)の草創以来今日まで、幾多の文化人達の筆や口にもてはやされ、“モミジの永観堂”として千百有余年の歴史を持つ。
※永観律師 11歳で禅林寺の深観に師事し、受戒した後東大寺東南院に住して三論教学を学び、その他法相教学・華厳教学にも通じた。後、浄土教に帰依して一万遍の念仏を日課とし、1062年(康平5)山城国光明寺に隠棲した後、浄土教を民間に布教するため、1072年(延久4)に禅林寺に戻り、人々に念仏を勧め、寺内に「薬王院」を設け、病人救済などの事業を行なった。また、後世において専修念仏の先駆者とみなされ、後世に浄土宗においては「浄土宗八祖」の1人に数えられている。
■古方丈(書院) 抜け雀の欄間。庫裏との間に悲田梅。悲田梅とは、永観堂の境内に、薬王院という施療院を建て、窮乏の人達を救いその薬食の一助にと梅林を育てて「悲田梅」と名づけて果実を施す等の救済活動に由来する。
■方丈(釈迦堂) 正面中央に釈迦三尊を安置。永観堂は禅宗ではないが、この建物は禅宗寺院の方丈と同型の造り。伝・長谷川等伯筆『竹虎図』、土佐光吉筆『三十六歌仙図扁額』。方丈と唐門との間には盛砂は、高貴の方の参拝用として、また、月夜にその反射を楽しむものという。
◆山越阿弥陀図[国宝] 恵心僧都作といわれる名画で宝物館に模写。阿弥陀如来の五色の糸に触れて、仏縁を結べば、西方浄土に成仏できるかも?
■御影堂 法然上人を祀る。大正時代の竣工で総欅造。
■本堂(阿弥陀堂) 本尊阿弥陀如来立像[重文]を安置。“見返りの弥陀"とも呼ばれ高さ77cm。心持ち上体を傾け、首を左後方に振り返っている。京都六阿弥陀の一つ(他に真如堂・清水寺奥の院・安祥寺・安養寺・誓願寺)。
◆見返りの弥陀 ある日、本堂で永観の念仏修法中、本尊阿弥陀如来が台座から降りてきて、永観の前に立ち自ら先導した。びっくりした永観に阿弥陀さまが背後を振り返って「永観遅い」といわれたといい、そのお姿が今も残って
◆来迎の松 本堂の前にあり、永観律師が疑心念仏のとき、諸菩薩がこの松
■臥竜廊 御影堂から多宝塔へ行く長廊下で、地形に合わせ見事である。
■多宝塔 昭和3年、六鹿清治が寄進。多宝塔とは下が四角、上が円形の塔。
◇永観堂七不思議 @悲田梅(貧しい人、病人に与えた梅の実)
A抜け雀(雀10羽描いたのに1羽飛んでいった)
B襖絵(真っすぐに描かれた金の竹が、歪んでしまった)
C三鈷の松(松葉が三本) D見返りの弥陀 E枝の蓮 F来迎の松
◆与謝野晶子歌碑 秋を三人椎の実投げし鯉やいづこ
□真言宗から浄土宗へ 永観堂を浄土教の寺院にしたのは、静遍僧都。鎌倉時代の初め、源頼朝の帰依を受けた真言宗の学匠静遍僧都は、法然上人(1133~1212)の死後、その著「選択本願念仏集」にある念仏義を批判するために、再三再四読み下すうちに、自らの非を覚り、浄土教の教えに帰依。静遍僧都は誹謗の罪をくいて、法然上人をこの寺の11代住職に推し、自らを12代とした。そして、法然上人の高弟西山証空上人(1177−1247)に譲る。その後、証空上人の弟子、浄音上人(1201−1271)が住職になり浄土宗西山派の寺院となる。以来今日まで、約800年永観堂は浄土宗西山禅林寺派の根本道場として、法灯を掲げている。歴史の変遷とともに永観堂も隆盛・衰退を見るが、近代を迎えると、71世の徹空俊玉僧正(?−1881)は社会福祉事業に貢献。師は京都府立病院の前身にあたる療病院を設立する。
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