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【大覚寺】《真言宗大覚寺派本山》075-871-0071
※嵯峨天皇の離宮を876年(貞観18)、淳和天皇の第二皇子・恒寂法親王が開基となり寺に改め、代々法親王が住持した門跡寺院。鎌倉時代、亀山天皇や後宇多天皇が入寺されて院政を行ったため嵯峨御所と呼ばれた。この皇統は大覚寺統(南朝)と呼ばれ、他の皇統、持明院統(北朝)と交互に皇位につくことになっていたが、後醍醐天皇でこの原則が崩れ、さらに足利尊氏が持明院統を擁立した事から、南北朝の争いに発展する。1392年、足利義満の時、この大覚寺において講和が成立、南北朝合一となる。
※嵯峨天皇(786〜842) 第52代天皇。桓武天皇第2皇子。三筆の一人(他に空海・橘逸勢)
勅使門前の桜 | 大沢池の桜 | 大沢池の桜 |
嵯峨菊2011-11-8 | 嵯峨菊2011-11-8 | 嵯峨菊2011-11-8 |
嵯峨菊2011-11-8 | 嵯峨菊2011-11-8 | 嵯峨菊2011-11-8 |
◆明智門 明智光秀の亀山城にあったものを明治4年に移築。
◆玄関 金碧画『松に山鳥図』は伝・狩野永徳筆。
■宸殿[重文] 後水尾天皇の中宮・東福門院の旧殿を移築した寝殿造風の建物。金碧障壁画の『牡丹図』、『紅梅図』は狩野山楽筆で桃山時代の代表作。宸殿前庭、『左近の梅・右近の橘』があり、古い形を踏襲している。蔀戸の閂に蝉がとまっているのが珍しい。
◆御影堂 大正14年の建造。背後の心経殿を拝するためのお堂。嵯峨天皇と弘法大師像、後宇多天皇と恒寂法親王の尊牌を祀る。また、昭和・大正天皇の尊牌など東側に祀られている。
◆御霊殿(安井堂) もと安井門跡の御影堂であったのを明治4年移建。
■五大堂(本堂) 不動明王を中尊に四明王を安置。嵯峨天皇宸筆の写経を秘蔵するゆかりから、写経の根本道場としている。時間が許すなら本堂で写経に挑戦を。
◇大沢池(名勝) 平安時代の庭園の遺稿。大沢池は中国の洞庭湖を模して造ったとされ、観月の名所で中秋の名月には観月会が催される。また、時代劇のロケーションの池で有名。水戸黄門にはよく出会う。
◆心経殿 心経とは般若心経の略。大正14年復興の建物。嵯峨天皇が疫病退散を祈願して写経した般若心経や各天皇宸筆の心経を納める。重要な宗教施設。
■正寝殿(客殿)[重文] 「御冠の間」とは後宇多法皇が御冠を傍らに置いて院政をとられた部屋。この部屋で南北朝の講和が行われたと伝えられているが、それは以前の建物のときのこと。様式からみて一応、桃山時代の建築。障壁画(重文)は狩野永徳筆、杉戸絵・明障子の腰板(重文)は伝・尾形光琳筆。
◇生け花 嵯峨御流の家元。嵯峨天皇が大沢池の菊ガ島の菊を手折って生けたのが嵯峨流華道の始まりという?
◇名古曾ノ滝(名勝) 大沢池の北にある滝跡。『小倉百人一首』の中で、藤原公任が藤原道長のお供をして、北嵯峨を訪れうたった「滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなお聞こえけれ」の旧跡。
◇南北朝の動乱 後嵯峨天皇が後深草、亀山の両皇子に対して、後深草天皇の系統には皇位を断念させ、亀山天皇の系統を皇位一につけたことに始まる。ところが、後深草天皇が伏見天皇をたてようとされたため、後宇多天皇が鎌倉幕府・執権北条貞時を責め、折衷案として「後深草、亀山両帝の皇統を十年ごとに迭立する」と定めた。しかし、後醍醐天皇がこの原則を破り南北朝時代をむかえる。
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