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【京都の通り名・東西路】
【洛中 東西路(今出川通〜九条通)】
【今出川通】中世の北小路にあたる。通り名は、応仁の乱以前に東洞院大路から東へ京極大路まで今出川と称する川が流れていたことに由来する。
【元誓願寺通】中世の今小路あたる。堀川東にあった誓願寺が、秀吉の都市改造で寺町通りに移転させられ(現在の新京極六角)、通り名も変わった。
【笹屋町通】町の一帯に笹薮があったという伝聞。または、笹は篠竹(ささたけ)で、織物には欠かせない縦糸の筬(おさ)の材料。この篠竹を売った店があったとも。
【武者小路通】小川通東入ルに、茶の湯の三千家のひとつ、武者小路千家の官休庵があり、通りの名になった。
【一条通】平安京造営時の北限の一条大路にあたる。幅30〜36mという記録。一条室町周辺が道路の里程の起点であったが、江戸中期には起点が三条大橋となる。
【中立売通】平安京の正親町小路に相当。通り名は、天正年間(1573-92)、店を構えない路上の商売で呉服の立ち売りが行われたことに由来する。立ち売りは裁ち売り
という説もある。
【上長者町通】平安京の土御門大路にあたる。天正年間(1573-92)、両替および諸家の金殻を用達する者が住み富裕の聞こえがあり、人呼んで長者といった事に由来。
【下長者町通】平安京の鷹司小路にあたる。
【出水通】近衛通ともいい平安京の近衛大路にあたる。烏丸の西に涌泉があり、それがときどきあふれて道路に浸水した事による。また御所からこの通りを通って、二条城へと流れた川があったともいわれている。
【下立売通】平安京の勘解由(官吏の赴任の公文書を掌る役所)小路にあたる。
【椹木町通】平安京の中御門大路にあたる。通りにサワラの木材店が多かったことに由来。サワラはヒノキ科の木で桶、障子、襖の組子に利用され耐水性がある。また、堀川以西は【上魚棚通】と呼ばれるのは、生魚問屋が多かったためである。
【丸太町通】平安京の春日小路にあたる。堀川通交差点近くに残る同業者町丸太町という町名に由来。堀川や小川周辺には丸太の材木屋が多かったためである。または、丸太町橋の架け替えで、周辺の人々が丸太を寄進したためとの伝承もある。
【竹屋町通】平安京の大炊御門大路にあたる。御所や二条城の御用の向きか、竹屋、古道具、刃物、宮大工、魚屋などが多かった。
【夷川通】平安京の冷泉小路にあたる。この辺の川の近くに蛭子社があったことにより、恵比須川といった。または、恵比須さんが流れついたための名前で、若王子神社の恵比須神社がそれだという。家具の専門店街として約60店舗あり、府全体の4割の売上を占める。岡崎の【冷泉通】は明治の通りで旧名を復活させたもの。
【二条通】平安京の二条大路にあたる。東西道路で最大で道幅51m、南北の朱雀大路に次ぐメインストーリート。大内裏の南限にあたる通りで、禁裏と世間とを隔離する意味があったようだ。
【押小路通】平安京の押小路にあたる。
【御池通】平安京の三条坊門小路にあたる。神泉苑の前を通るから、また、この筋の室町に御池町があったとも。他に、烏丸に藤原良実の別邸があり、邸内の池水が三条坊門に注いだからともいわれている。戦時中、空襲による類焼を避けるため、民家を強制疎開させ、50m道路とした。
【姉小路通】平安京の姉小路にあたる。通り名の由来はわからない。
【三条通】平安京の三条大路にあたる。秀吉が三条大橋を架橋してのち東海道の起点となり、三条大橋は京の表玄関となる。また、近代には、京都の「道路元標」が三条烏丸におかれることになって、公共施設、金融機関が集まり、京都のビジネスの中心となる。
【六角通】平安京の六角小路にあたる。六角堂の門前の通りからの命名である。平安京が造営されたとき、東西の小路がどうしてもこのお堂に突き当たる。勅使の願いに、紫雲がたなびいてお堂がゴトリと北に動いたといわれている。
【蛸薬師通】平安京の四条坊門小路にあたる。永福寺の本尊が蛸薬師(石造薬師如来の俗称)であることにちなむ。永福寺に善光というという僧がいた。病床に伏した母が蛸を食べたいというので、ひそかに蛸を買い求めて帰ったが、荷物を怪しんだ人々が中を見せろと迫った。仏門の身である善光は、恥を忍んで本尊薬師如来に祈って蓋を開けたところ、中身は経典に変わっていたという。
【錦小路通】平安京の錦小路にあたる。最初は「具足小路」と呼ばれたらしいが、それが訛って「屎小路」とも呼ばれたとも言う。ある仙人に右大臣が米十石を施行したところ、たちまち食べてしまい、この小路であるきながら「黒きえど」(ウンコ)をしたという。この後、小路名を聞いた天皇が「あまりにきたなきなり」と仰せられて、綾小路があるから「綾錦」からとって錦小路にせよ、と命令をされたと言う。
【四条通】平安京の四条大路にあたる。石段下より梅津の長福寺の西までを言う。四条大橋は平安時代の終わりごろに架橋され、「祇園橋」と呼ばれた。三条、五条の橋が東海道、奥州街道に通じる公儀橋であったのに対して、四条大橋は私橋であった。つまり、祇園社(八坂神社)の参詣のための橋であった。
【綾小路通】平安京の綾小路にあたる。通り名の由来は不詳であるが、この小路名が存在することによって、「綾」「錦」の発想から別の小路の名が変えられたことがある。錦小路である。
【仏光寺通】平安京の五条坊門小路にあたる。秀吉の大仏殿方広寺造営にあたり、東山渋谷にあった仏光寺を現在の地に移転して以来、仏光寺通りの名になった。
【高辻通】平安京の高辻小路にあたる。高辻の名前は醒ヶ井あたりが洛中でいちばん高いためといわれている。
【松原通】平安京の五条大路にあたる。秀吉が大仏殿を造営したとき、六条坊門小路の鴨川に橋がなかったため、参詣人のため五条大橋を六条坊門に移した。当初は大仏橋と呼ばれたが、後には旧名の五条橋としたために六条坊門が五条通りと呼ばれ、本家の五条通りの名は橋とともに失われ松原通りとなった。
【万寿寺通】平安京の樋口小路にあたる。臨済宗京都五山の五位に加えられていた万寿寺が東洞院にあったことによる。現在、万寿寺は東福寺の別格扱いの塔頭になっており、万寿寺通りにはその面影はない。
【五条通】平安京の六条坊門小路にあたる。通りの由来は松原通りを参照。現在の五条通りは幅50mで京都市最大の東西路線。戦時中、空襲による延焼防止と軍事目的のため千二百件が強制疎開させられて作られた道路。
【楊梅通】平安京の楊梅(やまもも)小路にあたる。東は東洞院から西は堀川に至る通り。このあたりにヤマモモの木があたったのであろうか。この通りの室町〜新町は島原以前の遊郭、六条柳町といわれたところ。
【六条通】平安京の六条大路のあたる。江戸時代は「魚棚通」と呼ばれた。西本願寺前にあった魚棚町に由来した名であったが、堀川通りの強制疎開でこの町は削られ町名は消滅した。
【花屋町通】平安京の左女牛小路にあたる。通り名の由来は、花を売る店が多かったという。
【正面通】平安京の七条坊門小路にあたる。通り名は、秀吉の造営した大仏殿方広寺の正面にあたることに由来。枳穀邸と東本願寺の間は【中数珠屋町通】とも呼び、その北の通りは【上数珠屋町通】、南が【下数珠屋町通】という。
【北小路通】平安京の北小路にあたる。新町通りから佐井西通りに至る。土手町通から烏丸通りまでは下数珠屋町通りとなる。通り名の由来はわからない。
【七条通】平安京の七条大路にあたる。かつて朱雀大路を挟んで官営の東市、西市が七条大路に面して門を開いた。東市は現在の西本願寺あたり、西市は中央卸売市場付近であった。
【木津屋橋通】平安京の塩小路にあたる。堀川より西側に木津屋町の町名が残っているが、木津屋橋はこの堀川にかかっていた橋で、「月見橋」とも呼ばれていた。
【塩小路通】平安京の八条坊門小路にあたる。通り名の由来は、平安時代、左大臣源融の河原院に難波から船で海水を運ばせ、塩を焼いたとことによるとされるが確証はない。
【八条通】平安京の八条大路にあたる。中世の八条通りは、平 清盛のほか平家一門の邸宅があったが、秀吉の都市改造によって塩小路通〜八条通間(JR京都駅構内)に築造されたお土居で、洛外の道路となり、以降は田畑が広がる通りとなった。
【東寺通】平安京の九条坊門小路にあたるところ。明治の中頃の地図では、唐橋周辺一帯は一面の田畑。その中を一本の小道が記されるのみで、東寺より竹田街道方面までは西側より太い道路で記されており、大正元年の地図には「とうじみち」の名が見える。
【九条通】平安京の九条大路にあたる。平安京造営時の大路小路のなかでも、最南端に位置して、南極大路とも呼ばれた。秀吉のお土居の築造で洛外となるにつれて九条大路は田園化し、代表的産物として、九条ネギ、九条セリがある。明治の初め頃の写真には、東寺五重塔の南側一帯には茶畑が広がっている。
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