【京都の通り名・南北路】
【洛中 南北路(先斗町〜佐井通)】
【先斗町通】この通りができたのは、1668年鴨川の大規模な改修が行われてから。「先斗」を「ぽんと」と呼ぶのは難読であるが、この読みはポルトガル語のポント(先の意味)に起因するという。もともと、改修以前からこのあたりは、「御崎(みさき)」と呼ばれ、それをハイカラ風に呼んだものと言われている。また、その御崎は「さきばかり五軒町」と呼ばれ、「さきばかり」=「先斗」という当て字になったとも。なお、四条通りより南側は、石垣にちなんで、【西石垣(さいせき)通】と呼んでいる。
【木屋町通】高瀬川の開通(1611〜1613)に伴って造成された通り。はじめ、樵木(こりき)町通と通称されていたが、現在の名になったのは江戸中期頃の事である。通り名は、この道筋に材木、柴、薪、炭を扱う店が多かったことによる。明治28年には、平安遷都1100年記念行事の会場(岡崎地区)アクセスに高瀬川を約1m埋め立て、道路を拡幅して、日本最初の市街電車が開通した。
【河原町通】秀吉の京都大改造後に開かれた道である。この通りの西側には「お土居」が走っていて、東側は鴨川に続く広い河原であった。高瀬川の開削の成功により、その広い河原が開発の対象となり、都市化を進め大きく変化した。その後、鴨川の新堤が築造(1661〜73)されると、この通りはいっそう注目されはじめ、市域が拡大し、18世紀中頃には、河原町通りは丸太町通りから松原通りまで到達した。
【新京極通】通り名の由来は、西側の寺町通りが平安京の東京極大路にあたるためと思われる。この通りが誕生したのは、明治五年。それまでは、誓願寺、金蓮寺の広大な境内であったが、ほかにも【裏寺通】の両側に20数か寺の寺院があり「寺の町」を形成していた。江戸時代、芝居小屋、見世物小屋が寺の境内に立てられるなどして、多くの参詣人を招き寄せて、すでに盛り場的様相を示していた「寺の町」であった。しかし、明治維新の宗教政策、廃仏毀釈の影響で、このあたりを寂れさせてしまうことになり、失われた賑わいを呼び戻そうとして計画されたのが、この通りです。
【寺町通】平安京の東京極大路にあたり、幅32mのもっとも東にある道路であった。現在の寺町通りが誕生したのは、秀吉の京都大改造による。通り名もこのときにつけられている。また、寺町通りは、その名が示すように東側は、ほとんど寺院で占められており、その数約80か寺、諸塔頭を含めると、ぐんと増大することになる。
【御幸町通】秀吉による京都大改造によって生まれた通りである。通り名の由来は、秀吉が大阪または伏見城から御所に参内するときに、この道をよく使用したことによる。「御幸」は、天皇・上皇だけに使用する言葉であるが、関白・秀吉の行粧、行列は天皇以上のものであったためと思われる。
【麩屋町通】平安京の富小路にあたる。この通りの西側の通りは、現在「富小路」と呼称されているが、秀吉の改造で、ちょっとややこしくなり逆転したようです。通り名の由来は、江戸時代の初め頃、この通り筋に豆腐・麩・麺類を商う人が多数集住していたと言われている。ただし、17世紀後半の段階では、麩屋・豆腐屋の職種はなくなっており、集団移転したか、商売替えでもしたのか、変化が実に早い。
【富小路通】秀吉による京都大改造で出現した通りです。本来、この富小路は平安時代の小路名であるが、旧富小路の道筋は、東側の麩屋町通りにあたり、この通りは、まったく新しく貫通された通りです。
【柳馬場通】平安京の万里小路にあたる。京都大改造のおり二条通りとの道筋に、「二条柳町」と言う、京都一、いいかえれば当時日本一の遊里がつくられた。しかし、二条城の造営にともなって六条の地に移転(六条柳町)、その跡地に豊国祭臨時祭礼での大規模な馬揃えがあり、柳馬場は、これにちなむものと言われている。
【堺町通】1590年に開通された比較的新しい通り。通り名の由来は、戦国期には高倉通までしか人家がなく、この通りにあたるところが「原」と「町」の堺だったからと言われている。
【高倉通】平安京の高倉小路にあたる。通り名は、この通りの北域に、高倉殿などの貴族の邸宅、臨時の内裏が並んでいたことに由来しているものと思われる。
【間之町通】秀吉の京都改造以後にできた通り。高倉通と東洞院の間にできた通りなので、間之町通と通称された。
【東洞院通】平安京の東洞院大路にあたる。通り名の由来は、天皇が即位した後の住居を「洞院」と言い、この大路にはその名称にふさわしい院や内裏が堂々と構えられていたためと思われる。この通りは、後に竹田街道へ連なる幹線道路となったために、江戸中期になると、交通渋滞がピークに達し、町奉行所はこの通りを北行き一方通行とした。日本で最も早く、一方通行規制がこの通りから始まった。
【車屋町通】秀吉の手による産物である。通り名の由来は、輸送業者や車鍛冶が集住していたことによる。と、いうのは隣の東洞院通が古代以来の車道であって、竹田街道に直結していたため、車の多さは大変なものであったという。
【不明門通】通り名の由来は、因幡薬師堂(平等寺)の松原通に南面してあった門が、常に閉ざして開かなかったためといわれる。このお堂は平安期より存在しており、革堂・六角堂・千本釈迦堂とともに京の「町堂」として古くから信仰されていた。その門が開かないとすれば、やはり不思議で、通り名になりそうである。
【烏丸通】平安京の烏丸小路にあたる。通り名の由来はわからない。烏丸通は現在「からすま」と呼んでいるが、正式には「からすまる」である。この小路名からとった元貴族の烏丸家は「からすまる」と発音する。この小路には、藤原氏一族の邸宅があり、しばしば「里内裏」という臨時の内裏となった。本来の内裏が火災によって消失すると、天皇が皇后などの実家に避難、その臨時の内裏が固定され、烏丸小路以東に定着、現在の京都御所は、この里内裏すなわち藤原氏邸を出発点としている。
【両替町通】この通りが開通したのは1590年のこと。通り名の由来は、徳川家康によって、この街路に江戸とともに金座が設けられ、また、後には伏見にあった銀座がここに移転させられ、金銀および金融に関係する業者たちがこの通りに軒を並べたことによる。
【諏訪町通】北域では【両替町通】。この通りは二つあって、東西の通りに面して諏訪神社が鎮座していたので、「すわのとおり」と呼ばれていた。また、その南北の通りも、諏訪町通と呼ばれ混同していたが、区別して「すわのちやう」といった言葉が変化して、「すわんちょう」になったように思われる。現在、東西の通りは【的場通】と通称されている。
【室町通】平安京の室町小路にあたる。通り名の由来はわからないが、室町時代の名の由来は室町通り今出川の東北側に室町幕府があったから。奈良、平安、鎌倉、江戸の各時代の名前はその都市の名前によりますが、「室町時代」は室町通りと言う通り名によります。伝統と由緒のある通りです。
【衣棚通】秀吉が開いた小路。通り名の由来は、三条上ル町に袈裟法衣を商う店が多く有り、衣店(ころもだな)と言ったことによる。後に店が棚に変わった。
【新町通】平安京の町尻小路にあたる。町尻小路とは近衛大路〜中御門大路間に修理職町があり、その北側を町口、南側を町尻と言ったことによる。修理職町とは宮中の修理事業一切をつかさどる工人たちの町。町尻小路がいつ頃から「新町通」の名で呼ばれるようになったか不明であるが、『京町鑑』には「新町通」の名が見える。この通りが商いの通りとして発展し、にぎわった為ではないだろうか。
【釜座通】この通りは1590年に新開されたされた通り。通り名の由来は、三条通りあたりに釜座があったことによる。鎌倉時代より釜座の存在がすでに知られており、現在も、大西家という京都ではもっとも古い釜師が仕事を続けている。
【若宮通】北域では【釜座通】。この通りの由来は、六条西洞院にあった若宮八幡の神領を貫いてつくられたところから、そう名付けられたという。若宮八幡は現在、五条大和大路東入ルに移転しており、その後、住民が祀った神社が鎮座している。
【西洞院通】平安京の西洞院大路にあたる。建設当初は、幅員24mの大道であり、通り名の由来については、東洞院通りを参照。
【小川通】秀吉の都市改造によって登場した新道。この辺を南流する小川があったことによる。この通りは、高辻以南、【天使突抜通】または【東中筋通】とも呼んでいる。
【油小路通】平安京の油小路にあたる。通り名の由来はわからない。この通りは、千本通りに次いで南北に長い通りで、秀吉が「お土居」をめぐらしたときに、その中心線を油小路通りにおいたと言われている。
【醒ヶ井通】通り名の由来は、左女牛井跡による。左女牛井は、もと源氏の堀川館の井戸と言い、あたりに住んだ室町中期の茶匠村田珠光がこの水を好み、足利義政にこの井戸の水を汲んで献茶したと伝える名水の井戸のこと。
【堀川通】平安京の堀川小路にあたる。京都の中央部を南北に貫く堀川に、その名が由来する。堀川の水源は明確ではないが、平安京造営以前まで、鴨川がこの川筋を流路したという説がある。先の戦争の終戦間際に、空襲による火災の類焼防止策として西側の民家が強制疎開、幅50mに道路に拡張され幹線道路となった。
【岩上通】秀吉の京都大改造後の通り。通り名の由来は、六角下ル岩上町に、「岩上神」を祀る岩上宮と中山神社(石上寺)があることによる。岩上は岩神とも。
【猪熊通】平安京の猪熊小路にあたる。平安時代のれっきとした通りであるが通り名の由来はよくわからない。猪熊通りは当初から「猪熊」であったかどうか、鎌倉期に書物には「猪隈」と書かれている。
【黒門通】秀吉の都市改造後の通り。通り名の由来は、秀吉の聚楽城の鉄門があったためと思われる。
【大宮通】平安京の大宮大路にあたる。通り名の由来は不明。五辻通から元誓願寺通までは、通称、糸屋町。「糸屋町には、傘いらん」西陣の人はかつてこう言った。家々は紅殻の千本格子に虫籠窓で、深い軒下(かしき造り)をもっていて、雨の日に命より大事な生糸を守ったという。
【智恵光院通】秀吉の京都改造後にできた通り。通り名の由来は一条上ル西側に浄土宗・智恵光院(1294年創建)という知恩院の末寺による。
【壬生川通】平安京の壬生大路にあたる。「壬」が水を意味し、水に縁が深いことからの命名かも知れない。壬生川通りというが今、その川はない。また、この通りは二条大路で平安京の大内裏の美福門に突き当たるため美福門大路とも呼ばれた。二条城の西側【美福通】の由来である。
【浄福寺通】秀吉の京都改造後に開かれた道で、笹屋町下ルの浄土宗・浄福寺が通り名の由来である。寺は平安時代に創建、現在地に移転したのは1615年。
【坊城通】平安京に坊城小路にあたる。通り名の由来はわからない。坊城小路一帯が「壬生」と呼ばれ、水と係わりあいが京野菜の壬生菜、芹などを産した。
【千本通】平安京の朱雀大路にあたる。平安京造営時、朱雀門から平安京南端の羅城門まで、幅85mの朱雀大路が一直線に通っていた。また、いつの頃から千本通りと呼ばれたかは明らかではなく、通り名の由来については、千本の卒塔婆が道の両側に立ち並んだとも、千本の桜が並木をなしていたとも言われている。
【七本松通】平安京の皇嘉門大路にあたる。通り名の由来は、この通りの下ノ森に一株七本に分かれた松があったとか、または、一夜にして七本の松が生えたとかいわれている。現在の道の開通は、秀吉の市街地改造で、寺町通、寺之内通と同じように市中に散在した寺院を集めて生まれた通りである。
【御前通】平安京の西大宮大路にあたる。通り名の由来は、北野天満宮の御前の道というところから、近代以後に通称されるようになった。平安京の時代には大内裏の西側の大きな道路であり、幅員24mに達するものであった。
【天神通】平安京の西靫負小路にあたる。通り名の由来は、北野天神にちなむほか、この通りに沿って一ノ保社(時鳥天神、現北野天満宮内)と文子天満宮(現北野天満宮内)が所在していたことによる。
【西大路通】平安京の野寺小路にあたる。小路名の由来である野寺は、一条大路の北辺にあり、飛鳥時代の創建、秦氏の氏寺でもあった寺で、一説には広隆寺の前身であるとされている。しかし、平安末期からは田園化し、近世には洛外の農村の位置にあった。この西大路通が昭和18年市電の開通で京都市街の外郭線として完成した。
【佐井通】平安京の道祖(さい)大路にあたる。通り名の由来は、西院(さい)の地名、南の佐比河原の地名にちなんでいる。また、【春日通】は、春日神社に由来し、佐井通とともに使用されている。
京都検定HOME おすすめ観光コース 貸切料金表 お薦め食事処 こだわり観光コース 中井タクシーのブログ お薦めお休み処・お土産 紅葉観光コース 観光社寺一覧 タクシードライバーの研修会