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京都観光タクシー同友会/京都観光タクシードライバーの小噺

いけばな】について

いけばなの家元・六角堂(頂法寺)
池坊会館・紫陽花(テーマ)

神霊が樹木に!
 日本では古くから神が樹木に宿ると信じられています。地面に立てた松や榊などに神を招き寄せ、迎え入れた枝を依代として祀りました。正月の門松などはその名残でしょう。

◆仏像の供花から愛でるものへ!
 奈良時代には、仏像に供える飾りとしての花、供花が、仏教と共に中国から伝えられた。当初、花は観賞用というよりも、宗教的な意味が強かった。やがて貴族の邸宅では、花を切って瓶に挿し、愛でるようになる。『枕草子』の記述からうかがえる。そして、平安末期から鎌倉時代にかけては、花の優劣を競う「花あわせ」も盛んに行われた。

座敷飾りとしての「たてはな」
 室町時代、書院造の建築様式とともに、座敷飾としての「たてはな」が完成する。花を立てる専門家も登場し、将軍の邸宅などで活躍した。六角堂池坊の寺僧であった池坊専慶もそのひとり。その後も池坊からは名手が登場し、専慶から十六代後とされる専応は、今日の池坊の元となる口伝書を残し、流派のやり方を残した。

◆たてはなは「りっか」へ発展
 安土桃山時代、たてはなは「りっか」へと発展し、時代の風潮に合わせた豪華絢爛たるものとなる。二代専好が、中心になる枝と左右に伸びる枝六本の計七本の枝で構成する様式を確立する。一作ごと無限の変化に富むと評された天才・二代専好のおかげで、池坊の立花は名をあげ、「花は池坊」といわれるほどとなる。

なげいればな
 立花に対して形式を定めない自由な生け花ということで「なげいれはな」とよばれていたものが、桃山時代、茶室の花(茶花)として確立された。茶花は草木や花のありのままの自然の姿を生かそうとするものといえる。花を「立てる」のではなく「いける」という言葉が用いられた。茶道の発展とともに普及した茶花は、元禄ごろには茶道から自立して、「抛入花」の名で江戸の町人階級に、たいそうもてはやされる様になる。

生け花への昇華
 生花は抛入花の自由性に立花の形式美をプラスした「生け花」へ昇華し、その後、生花の流派が次々と誕生し様式が確立する。それまで「立花」でいけばな界を独占してきた池坊も、「生花」を認めざるをえなくなり、文化年間(1800年代初め)にその様式を取り入れた。ただし、立花の本家本元のメンツにかけあくまで立花から派生したものとして「しょうか」の名で呼んでいる。

女性の稽古事
 江戸時代、儒教政策の影響で諸流派は、遊興の道具としてもてはやされていた「いけばな」を、本当は人倫の道を明らかにするものだとして「花道」と称し、いけばなは婦女子の稽古事の筆頭とされるようになっていった。

フラワーアレンジメント
 定型化を嫌う文人たちの間で生まれたのが、抛入花の流れをくむ「文人花」。これが幕末から明治にかけて外国に紹介され、欧米のフラワーアレンジメントに大きな影響を与えたという。明治維新で一時衰退したが応接間のテーブル用として、洋花を使った「盛花」が考案され、それに刺激を受ける形でいけばなの見直しが行われた。

池坊専応の言葉
 「野山水辺おのずからなる姿をあらわす」池坊専応の言葉である。今日のいけばなは、思い通りの造形美を作り出すために、余分な枝葉は切り落とし、枝の曲がり具合がおもわしくなければ、切れ目を入れたり、火であぶったりして「ためる」ことを行っているそうだ。池坊専応の説いたいけばなの精神からはちょっと遠い人も多そうである。

資料「日本人の伝統文化」山本素子著より

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