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京都観光タクシー同友会の観光案内

【阿弥陀ヶ峰】Tel:075-561-3802(豊国神社)

 高さ193m。円錐形の優艶な山容は清少納言(せいしょうなごん)をして「峰は阿弥陀ヶ峰(枕草子十二段)」と嘆賞せしめた。古くは鳥部山といったが、(天平年間724~49)僧・行基(ぎょうき)が山腹に阿弥陀像を安置して、かく呼ばれるようになったという。鳥部野は鳥部山の裾野をいい、大体清水寺以南、泉涌寺以北、西は鴨川に至る広い地域を称した。この地が北の蓮台野や西の化野とともに上下万民の葬送地となったのは平安時代も早く、天長3年(826)、淳和天皇の第一皇子恒世親王が22歳を以って崩ぜられたとき、鳥部寺の南の山に葬り奉ったのが史上における初見である。その後、多くの人々が鳥部山の山野に葬られた。遺骸は火葬ばかりでなく、土葬もおこなわれたという。墳上に墓石が置かれるようになるのは後のことで、卒塔婆(そとば)を立ててしるしとしたという。

阿弥陀ヶ峰・七条通東へ突当りのお山

 また、この地は多くの貴族の山荘が営まれたところでもあり、特に後白河上皇の法住寺殿(ほうじゅうじでん)は規模の大きさでは比類のないものであり、現在の三十三間堂はその殿内につくられた千体観音堂の遺構である。上皇はまたその周辺に新日吉(いまひえ)神宮・新熊野(いまくまの)神社を勧請(かんじょう)して鎮守社とした。

 天正13年(1585)、豊臣秀吉はこの地に着目し、巨大な大仏殿や長子・国松のための菩提寺・(しょう)雲寺(うんじ)を建立し、また、秀吉の没後は豊国廟が造営された。

 豊臣氏滅亡後、徳川氏の世になるや、豊国廟は破毀、方広寺大仏殿は荒廃にゆだねられ、祥雲寺は妙心寺玉鳳院に移された。祥雲寺あった地には秀吉の根来攻めにより灰燼に帰した新義真言宗・智積院が、徳川家康の寄進によって再興された。秀吉の偉業を偲ぶに足るものはすべて地上から抹殺された。

 明治維新後は、いち早く豊国神社の再建と豊国廟の修復がおこなわれ、明治28年、帝室博物館(現京都国立博物館)が建設、ついで明治42年、京都市立絵画専門学校(現市立芸術大学)が、大正3年には私立京都高等女学校(現京都女子学園)が開校され、東山七条付近ほど歴史的に変遷のはなはだしいところは他にその例を見ない。

【豊国廟】Tel:075-561-3802(豊国神社)

豊国廟・拝殿 豊国廟・神門 拝殿から563段
豊国廟 豊国廟五輪塔

 阿弥陀ヶ峰の山頂にあり、豊臣秀吉を葬る。山麓の拝殿から563段の石段を登る。秀吉は慶長3年(1598)8月18日、63歳で伏見城に薨じたが、遺言によりこの地に埋葬され、その山麓(太閤坦(たいこうだいら))に壮麗な社殿僧坊が造営された。後陽成天皇は豊国大明神の神号と正一位の神階を下賜され、秀頼は社領一万石を寄進したという。それより毎年祭日には勅使が参向し、恩顧の諸大名の参詣も絶えなかった。しかし、元和元年(1615)豊臣氏が滅亡後、徳川家康は豊国廟を破毀し、その参道中央に新日吉(いまひえ)神宮を移して墓参の通行をさまたげ、社殿は朽ちるままに放置されたという。明治13年豊国神社が方広寺の地に再興されるにおよび、同31年黒田・蜂須賀等の旧配下の人々が豊国廟の修築をおこなった。戦前は軍国主義の波に乗って秀吉も大いに礼賛されたが、終戦後は侵略的軍国主義の元凶とみなされ、今は墓前に弔する人も少なくなっている。

◇太閤坦 もと社殿のあった平坦地をいう。今は拝殿と社務所・御供所等があるにすぎない。その北隅には秀頼の子国松丸墓および秀吉の側室京極竜子(松丸殿)墓がある。

参考資料 昭和京都都名所図会 竹村俊則著より

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